第1の道

 世紀末のブレア政権は、第3の道ということを唱えて世界の注目を浴びた。アリストテレス演繹法実存主義に連なる保守の論理を第1の道と定義し、プラトン帰納法構造主義に連なる革新の論理を第2の道と定義すれば、そうではない第3の道と言うこと自体が新鮮だったろう。しかし、戦後日本の自民党政治における経済政策では、3つの道が併存し、しかもその中でメジャーなのは第3の道でマイナーなのが第1の道であるという逆転した構造があった。
 第1の道は低負担低福祉の小さな政府。第2の道は高負担高福祉の大きな政府。第3の道は低負担高福祉の政府で穴埋めは国債で後代に残す。世界恐慌時のケインジアンのように臨時の策としては有効な第3の道が、経世会により恒常的に用いられたところに日本財政の不幸があった。第1の道を志向する政治家は小泉政権など清和会に多く、第2の道を志向する政治家は宏池会に多い印象を受けるけれども、これらの論争は半世紀以上かけても綱引きゲームの域を出なかったように思える。保守陣営の第1の道で革新陣営が第2の道であるというような哲学に根ざしたものではなく、与党内部のディベートに過ぎなかったのだ。
 このような状況は政権交代によっても基本的には変わっていない。民主党自民党も党首が増税による財政再建を唱えるのに対して、国会議員の多くが各政策分野での振興拡張へと向かうべく発言をする。そのような中で小泉改革の申し子ともいうべきみんなの党が急速に支持を拡大しており、機をみるに敏な民自両党の議員もそれに雷同しているように見受けられる。まぁ、小さな政府が支持される所以は保守主義というよりは政治不信だというのが今の政情の情けないところなのであるが。
 三つの選択肢の中で有識者と呼ばれる人たちが多く支持するのは消費税増税による大きな政府なのだろう。ばらまきの第3の道には展望はなく、市場経済を徹底するだけで成長力が回復するという第1の道も夢物語にみえる。そうであれば、消費税を増税して増大するばかりの行政需要に見合う収入を確保して財政を均衡させるのが、最も明快な主張のようである。
 私自身も10余年前、橋本内閣の頃はこのような考え方を支持していた。しかし、今は収支均衡による財政再建を目指すには既に手遅れになっていると思う。現在の国債発行残高は1000兆円に近づきつつあるが、金利負担は1%だとしても10兆円である。あれほど世間の耳目を集めた民主党事業仕分けにしても削減できた額は1兆円強。焼け石に水とはこのことであろう。もはや天文学的な額の借金を経営努力によって返済するのは不可能であり、インフレによって国債の実際の価値を押し下げるしか合法的に返済する道はない。
 そういう意味では私の経済財政に対する見方は安倍内閣の頃の上げ潮派に近いのだろうか。反動ともいうべき安倍内閣の安全保障や教育に対する姿勢には好感を持てなかったけれど。しかし、その後は踏み込んだ経済政策はみられず綱引きを繰り返すうち、極端な円高となってしまった。円高は、つまりデフレに他ならない。だからインフレに誘導するのがいいというのが私の考えなのだが、そのためにはどうすればいいのか。いつぞやのインフレターゲットでは生ぬるいのであり、ここでは保革を問わず荒療治が求められる。

第143回 芥川賞選評

 私が選評を書かなかった前回、芥川賞は該当なしであった。駄作ばかりだったから、選評を書く気になれなかったというつもりではない。しかし、綿矢りさ金原ひとみの同時受賞に味をしめて以来、この賞のノミネートが実力よりも話題性を意識するようになってしまったのは事実であろう。そういった意味で「該当作なし」は、編集部への審査委員からの警告として解すべきである。そして今回、その警告を受けた編集部がどのように応えたか、受賞作よりもその候補作に興味がそそられた。
 今回の候補作は、赤染晶子乙女の密告」(新潮6月号)、鹿島田真希「その暁のぬるさ」(すばる4月号)、柴崎友香ハルツームにわたしはいない」(新潮6月号)、シリン・ネザマフィ「拍動」(文學界6月号)、広小路尚祈「うちに帰ろう」(文學界4月号)、穂田川洋山「自由高さH」(文學界6月号)の6点である。女性4名はいずれも候補となった経験があるのに対して、男性2名はほぼ新人である。ネザマフィを除いた女性3人は既に自分の書き方を固めているのに対して、文学界の3人の作風はなお流動性が残る。そういった意味で、6者6様の、どちらに転んでも当選者を出せるような仕掛けに思えるのだが、私見としては、本命:鹿島田真希、対抗:広小路尚祈としたい。
 「その暁のぬるさ」の鹿島田真希は、同レベルの賞を総なめにしている十年選手であり、おそらく最後の芥川賞選考会となろう。この作品が、これまでと比べて特別に斬新だとはおもわれなかったけれど、保育士の合コンのシルエットでありながら、話題が展開するにしたがって存在感を増す過去の失恋の取り上げ方の巧さには舌を巻かされた。その失恋は一人旅の小話が挿まれる程度のたいそう抽象的なものであるにも関わらず、荒削りの心情描写が論説的でなく心に響いた。
 「うちに帰ろう」は、主夫が公園の主婦仲間と関わっていく話。心中しようとする主婦に付き合わされるなど、笑いどころもあり、その主夫という立場からみる感覚は新鮮である。しかし、ゆっくり考えてみると、鹿島田の巧さに対抗できるのが広小路の人生経験の豊富さであり、その多様なものを包括する鷹揚さが文章力をカバーしているようでもある。
 シリン・ネザマフィはイラン人であるから候補作発表以来、最も取り上げられることが多い。軽い気持ちで通訳を頼まれたら死の通告をさせられたという展開そのものは自然だけれど、私は彼女の日本語が上手ではないから、この賞にはまだ早いのではないかと思う。言葉は文法的に合っていればいいというものではない。彼女の作品の言葉のリズムには、言葉にできない雰囲気を伝える力はないのだ。
 「ハルツームにわたしはいない」は、詩的な行間のメッセージが強い作品ではあるものの、純文学の使命が人間とは何かを問いかけるものであるとの前提に立てば、短さのゆえもあり、その使命を果たしているとはいえないと思う。「乙女の密告」は、作者の京都外大での学生経験とアンネの日記についての洞察を重ね合わせており、その構成は悪くないものの、独りよがりな印象は否めない。作品の完成度を高めるためには、教授の個性をもっと掘り下げて、それによって乙女達のそれぞれを浮かび上がらせるべきだったと思うのだが、“乙女”は言葉遊びに終始してしまった。「自由高さH」は、第二席で文学界新人賞を受賞したにも関わらず今回ノミネートされた幸運児であるが、企業家一族の歴史が何を語っているのか、私には理解できなかった。

 選考委員会は、きたる平成22年7月15日(木)午後5時より築地・新喜楽で開催される。

小選挙区と比例区

 与謝野馨舛添要一が相次いで離党届を出した際、自民党は両者を除名処分とした。どこかの国の瀬戸際外交のごとく離党をちらつかせながら条件交渉を続けてきた舛添に党執行部の心証は著しく悪く、その除名は先に決まったものの与謝野には同情論がないこともなかった。しかし最終的に、両者ともが比例代表制での選出であることを決め手として除名に落ち着いた。
 衆議院議員の場合、小選挙区当選組を金、比例代表単独による当選組を銀、重複立候補しての比例代表当選組を銅というように人事で歴然とした区別をつける政党が多い。金星が選挙区民の民意を得ているのに対して、銅星においては選挙区民が不支持だったにも関わらず政党の枠で当選したのだから、民意を得ることによる政党に対する貢献度も低いという理屈である。この理論でいえば参議院の拘束名簿で断トツの得票をした舛添は、大いに党の得票に貢献しているのであり、一概に比例区選出として差別するのは無理があると思うのだが、私の疑念はそれだけにとどまらない。
 そもそも、選挙区の如何を問わず、選出された国会議員は全国民の代表である。国民の代表者としての地位は一人一人が全く平等なのであり、そこに差をつけるということは民意にかえって恣意を持ち込むことになる。だいたい重複立候補による復活は惜敗率の順によるのであるから、ドイツの小選挙区比例代表併用制を持ち出すまでもなく個人の得票によってたつものである。単独立候補であったり比例名簿の最下位であったりすれば、それは個人の得票とは言えないが、国民の支持を得た政党により支持されたということなのであり、間接的にはその当選者に民意があるのは明らかである。比例代表選出で離党する議員を詰るよりは、そのような政治家を比例区名簿に登載した政党が人をみる明のなさを反省し、そのツケとしての議席の減少を甘受すべきであろう。
 それにしても、正反対の思想により導かれる小選挙区制と比例代表制が衆参両院に並存し、しかも参議院にはその中間形態ともいうべき大選挙区制までが置かれているというサラダボールのような仕組みはどう評価すべきであろうか。私見としては、衆議院小選挙区制、参議院比例代表制に集約すべきであると思っている。内閣を選び国政の方向を定めるいわば決断の場である衆議院においては、民意をより鮮明に示すことが求められ、良識の府としていろいろな意見を闘わせる場である参議院においては、多様な民意を代表させることが必要だからだ。選出方法が大きく異なればねじれ国会になる可能性も高くなるが、それはそれで大いに結構。第一院に付和雷同する第二院など無用の長物でしかないのだから。

ネット右翼

 ネットが便利な世の中になり、私も新聞を購読せずYahoo!ニュースで済ませる毎日なのだが、ネットの双方向性というのだろうか、ニュースには読者がコメントを載せることができる。政治記事に寄せられるこのコメント、右翼の集まりかと思われるような過激なものがほとんどである。
 政権交代前には、私もさほどの違和感も覚えなかった。右の読売産経と左の朝日毎日という軸があるのは当然のことであるが、その政府のあり方に問題提起するというのはマスコミの特性であるから、政府の欠点をあげつらう記事が多くなるのは致し方ない。そのような中で、政府与党の批判も結構だが、野党にも問題が多いんだというネットコメントの論調は、それ自体というよりも世論形成の一翼としては一定の意義があった。しかし政権交代後、反民主党の方向性において、マスコミとコメンターは重なってしまった。そうすると是非はともあれ論理的に執筆するマスコミと、感情的なコメントとのレベルの差が際立ってくる。ニュースサイトの政治記事のほとんどが極端な国粋主義を前面に押し出した罵詈雑言の羅列ばかりで読むに値しない。政治欄のコメンターを「ネット右翼」と表現するのは言い得て妙である。
 ひとつ断っておくと、私は革新政党の支持者ではない。私がネット右翼を嫌悪するのは、彼らが他でもなく、彼らの最も嫌いな中国反日学生達とそっくりだからである。中国では21世紀になってもときおり若年層を中心とした反日運動が盛り上がるが、彼らは「愛国無罪」の免罪符以外に理論武装をしてはいない。共産党統治下において反体制を叫ぶ心意気もなく体制を改革していく甲斐性もなく、街で反日プラカードを掲げ、人が集まり匿名性が確保されたなら民家や商店で暴力的な言動を働いているのだ。数年前に趙一曼の銅像にセクハラをしてネットで公開していた学生がいたが、浮ついた彼らが、命をかけて国を守ろうとした先人達と同じ「反日」という言葉を使うことには、日本人としてではなく歴史を学ぶ者として嫌悪感を覚える。
 そしてネット右翼。現実の世界は別として、ネットの世界では彼らは強者になる。仮想の世界での強者だからこそ弱肉強食を是とし、匿名ゆえにこそ過激な言動を繰り返す。ネットの世界では「炎上」というようだが、大量の批判的な書き込みが呼び水になって、同じような書き込みで埋め尽くされることがある。ここでの書き込みには、問題提起をするとか、新たな論点や情報を提示するとかの建設的な態度は全くない。ただ仮想の勧善懲悪の中に、現実世界への不満をぶちまけているに過ぎない。
 弱いものいじめでしかないネット右翼。しかし、閉塞した今日の日本の現況を思えば彼らだけを責めるわけにはいくまい。今日の日本の特筆すべき特徴は、「ゼロサム社会」であること。このような社会では、誰かが得をするためには誰かが損をしなければならず、みんなで一緒に前へ進むということが困難である。だからこそ、誰もが勝てる喧嘩をしたがるのであり、難攻不落の名城たるネットを拠り所にしたがる。そういう意味では、社会の停留する不穏な空気を取り除くためには、ゼロサムの打破こそが大切になる。
 それではどうすれば良いかといえば、全く別論であり、この国の経済のあり方全体に関わる大きな論点であるから他へ譲りたい。しかし、ネットでの活動が可能になるよう公職選挙法を改正しようとするのが革新側の与党だというのが皮肉。まぁネットの世界で大人気の麻生首相の下で自民党は下野したのだから、ネット右翼の現実世界における政治力は未知数だけれど。

闖関東

 先月の連休に冬期休暇を足して5日間で中国東北を旅行した。ここ数年で3回目の中国となってしまったが、今回は自分の語学力を試す旅であり、また前二回とは大きく異なるものであった。大連を基点とした旅は、東亜の現代史の縮図を踏むことでもある。旅順を往復してから夜行で哈爾浜まで北上し、満州国の新京こと長春、後金の都である奉天こと瀋陽を経て北朝鮮国境の丹東に至る旅程には数多くの歴史上の舞台があった。
 世界遺産故宮と陵を有する瀋陽はこの旅程のハイライトであるし、丹東の断橋から観る北朝鮮の風景も話題性がある。しかし、記憶に最も強く残ったのは、瀋陽から丹東への鈍行列車における乗客同士のほろ苦いやりとりであった。
 瀋陽を出たとき満員だった車内は、徐々に空いていき、ようやく座れたときに斜向かいの若い女(後に満州族だと知るのだが)と何となく会話が始まり、私は日本人の観光客だというような話をしていた。後ろの方で我々の会話を耳にした蒙古族の若い男が、それで私に関心を持ち出し、満州族の女を押しのけて私の右に席を移してきた。当初は彼との会話を楽しんでいた私も、彼のすごいペースに押されて辟易していたところ、彼の右に座っていた朝鮮族だという中年の男が、アメリカや日本がいかに悪い国なのか滔々と語り出し、一気に盛り下がった。その後は、対面にいた男が「自分の子供には日本語を勉強させている」という話をしたりで全くの沈黙ではなかったものの、何となく気まずい雰囲気のまま夜の丹東に着いた。
 気まずいとはいえ出来過ぎの挿話である。満州国時代の五族協和は、日本・朝鮮・満州・蒙古・漢民族によるものであった。敗戦により日本人が退場した後、四民族はいずれも「中国人」になったが、その民族性が融合したわけではなかった。韓国の経済力を見聞きしながらも辺境で貧困に甘んじる中で屈折したプライドを保つ朝鮮族清朝を樹立したゆえに民族としてのアイデンティティをほとんど失った満州族、陽気で快活ながら気分屋で言動に計算のなさすぎる蒙古族、彼らを尻目に教育などに地道に投資を続ける男は、さしずめ漢族だったのだろうか。
 アメリカ、オーストラリア、北海道。19世紀に前後して移民により構築された社会は世界中にあるけれど、中国東北もその一つである。人口希薄地である父祖の地を大多数を占める漢族に奪取されるのを恐れた征服王朝清朝は、東北三省への入植を禁じてきたが、清朝の力が弱まった20世紀初頭、海を隔てた山東半島の飢饉をきっかけとして急速に入植が進んだ。これが歴史上「闖関東」とされる出来事である。本国との距離や入植の時期など、日本における北海道と類似点は多いが、中国東北が北海道と大きく異なるのは、国際政治の影響もあり、様々な民族が混在する社会ができあがったことだろう。むろん北海道にも、こういう出身地によるアイデンティティの相違は存在する。北海道の場合、入植の第1期(1895年前後)に主力を占めた北陸出身者と第2期(1905年前後)第3期(1915年前後)に主力を占めた東北出身者の風俗習慣に大きな違いが見られたものの、それが対立対抗関係に発展しないままに「道民」となった。それが可能であったのは富山県人であるか青森県人であるかより、各々が日本人であることを意識していたからであろう。
 ここまで語れば、山東人であるか否かが意識された闖関東が成功するために必要だったものは明らかである。「東北人」となるためには「中国人」であることが必要だったのだであり、そこにこそ抗日運動が根深いものになった潜在的な理由がある。その一方で私は思う。五族協和の「満州国臣民」をつくるというのも、出身地による対立関係を解体するという点では一定の効用があったのではないかと。それにも関わらず満州国が否定されるべきものだと結論づけてみると、新天地において解体すべき旧物とは何かが分からなくなる。唯一つはっきりしているのは、入植と侵略は紙一重であるということ。それにもかかわらず侵略はいけないことであり、入植は全否定すべきではない祖先の営みであると言うからこそ、何をもって是とするか論じることが難しくなる。

統帥権の独立と文民統制

 統帥権の独立という言葉は、軍部暴走の代名詞となっている。軍部の気にくわない人間に組閣の大命が降下されても、軍部大臣現役武官制をタテに軍部が陸軍大臣の推薦を拒み、内閣そのものを流産させるという形での政治介入は大日本帝国憲法の下において頻繁に行われた。しかし、軍の政治介入は統帥権の独立から必然的に導かれるものではない。戦前の過ちは制度にあったのではなく、制度の運用にあった。
 そもそも軍事と監察を行政権から分離するという構成の歴史は古代にまで遡る。漢において三公とは丞相(司徒)、御史大夫(司空)、大尉(司馬)のことであったが、概ねそれぞれの管轄は、行政と監察と軍事であった。唐の頃になると、行政権は三省六部が、監察は都察院が、軍事は都護府が司るようになる。興味深いのは、六部のうち吏部が内務、戸部が財務、礼部が外務、工部が経済を所管しただけでなく、兵部と刑部が存在していたということ。監察と軍事の独立は企画部門までとして、管理部門は閣内に置くということだが、陸海軍省が軍政を、参謀本部と軍令部が軍令を司った帝国憲法も、これと同じ型である。
 しかし、このような三権の均衡は、西洋近代の立法、行政、司法の三権を分立させるという思想に直面する。モンテスキューは、渾然一体となっていた立法と行政を区分して捉えたこともさることながら、司法権の独立を謳い、これも行政権と対立関係にあるとした。ここで考えなければならないのは監察権と司法権の相違である。監察が内部の牽制機能であるのに対して司法は外部の牽制機能であるということだ。日本においては、この区別を重視しなかったため、監察と両翼を担っていた軍事に司法並みの独立を期待してしまい、軍部の暴走を許してしまった。日本も含めてアジア諸国に軍事クーデターが多いのは近代思想が成熟していないということだけでなく、古代からの監察と軍事の独立の思想を引きずっているという背景もあるからだろう。

 さて、そのような軍事独裁の反省にたって、日本国憲法下の自衛隊においては「文民統制」が敷かれているのだが、その実は制度の趣旨を履き違えているようにも思える。すなわち文官である内閣総理大臣防衛大臣の下に三十万隊員の全てを置くというのが文民統制の意義なのだが、文民である背広組が文民でない制服組の上位にあるような内局優位が戦後の長きにわたって確立してきた。くどい言い回しだが、文民である防衛大臣を支える両翼となるのが防衛事務次官であり、統合幕僚会議議長である。戦前の感覚であれば、次官は中将職であるから大将徽章を付ける統幕議長よりも格下とまで言いかねないが、それも不当であり、やはり両者の立場は対等であるというのが私の認識である。

 実は、この問題の論点は国にとどまるものではない。都道府県が所管する警察や、市町村が所管する消防においても、行政組織と階級的治安組織という馴染まないものをどのように融合し、組み立てて、どの程度の独立を容認していくかということが重要になる。専門性を発揮させることと、行政全体の中に収斂させていくことは、そもそも矛盾をはらんでいるのであり、議論の中でどこかに落としどころを見つけざるをえないのではあるが。

厳禁論と弛禁論

 今年の大河ドラマ龍馬伝」は、黒船の衝撃から物語が始まるが、より衝撃的な開国を強いられたのは中国の清だろう。むしろ清の開国から十年以上もの猶予を与えられた日本だからこそ、庶民の衝撃はともかくとして幕府が早期に開国の判断を下し、近代化への道を歩むことができた。
 その中国が開国を強いられたのが阿片戦争。真っ先に産業革命を経験したイギリスの武力に遅れを取った中国が敗れて半植民地化するきっかけになったというのが阿片戦争の評価だが、この当時でもGDPベースでは中国の方がイギリスとは比較にならない経済力を持っていたとされる。経済力で世界1の中国にイギリスが比肩できるようになるのは、中国に次ぐ経済力を誇っていたインドを植民地化した19世紀後半のこと。そのように考えれば、GDP上位に中国とインドが並ぶとされる21世紀後半の風景も、19世紀前半までの長く安定した時代の関係に戻るだけのことなのかもしれない。中国がイギリスに大きく劣っていたのは、良鉄は釘にならずとの格言に表される文官偏重の中での軍事力であり経済力ではなかった。

 閑話休題。この戦争は林則除の阿片取締に端を発するのだが、戦前の中国には厳禁論の他に弛禁論があった。阿片の依存者に碌な人間はいないのだから禁止の必要はなく、公認することで関税を徴収すれば国庫にも寄与するとの弛禁論は、かつて阿片常習者であり自らの強い意思で阿片を断ち切った道光帝の容れるところとならず林が起用されたとされる。現代においても林が英雄視される一方で弛禁論は一顧だにされないが、私にはそれほどの暴論であるとは思えない。
 まず、公認するといっても是とするわけではなく、阿片が流入しているという現状認識から始めるということである。厳禁論に立脚した林が非常に優秀な政治家であったため、彼の提示した阿片撲滅の具体案もイギリスに対して筋の通ったものになっていたが、放任から厳禁への転換は既存の関係性の全否定を意味するのであり、それによって生じた摩擦が招いた重大な事態の結果責任を負わなければならないのは必然であった。また、弛禁論とは関税による消費の抑制を意味する。日々、様々な物の貨幣価値を天秤にかけている経済動物である人間に、阿片の嗜好品としての効用と関税額を量らせることにより、究極的には阿片の消費量を一定の方向に導くことができるのだ。長期的にみて、参入退出が自由な中でなど、市場原理が働く幾つかの条件さえ整えば、高額の関税を払ってまでの阿片使用はそれだけの効用が当事者に認められるということになり、経済合理性を有する。

 なぜ、170年も前の事を持ち出すのかというと、昨今のタバコへの風当たりを思うからだ。私は、生まれてからこれまで一度も喫煙を嗜んだことはないし、依存性や有害性などタバコは阿片類似の特性を持つ商品であると認識している。しかし、だからといって、ほんの数年前まで日常的に喫煙が許容されていたものを、どこもかしこも一律に禁煙とするのは妥当なのだろうか。禁煙が当たり前になったがため、誰もが煙に敏感になって、さらに禁煙スペースが広がるという循環が発生している。なお私の職場では、分煙が始まって以来、喫煙スペースは執務室の一部から、ロビー、排気口のある倉庫みたいな場所を経て現在では庁舎の外になっている。冬に震えながら吸うタバコの味は分からないが、不良の高校並みにトイレの中がタバコ臭かったりする。
 そうではなく、誰もが喫煙権を自由権として行使できる社会が、行使する予定のない私ではあるが望ましいと思う。他方で、それでも嗜好する人がいるのであればタバコ一箱500円などというケチクサイ話ではなく、1000円あるいは2000円にしてはどうだろうか。それだけのお金を払ってでもタバコを吸いたいという人の権利を認め、需要そのものを抑制することで嫌煙家の期待にも答え、一箱800円あるいは1800円を超える税収により国庫も潤う。そういう市場の原理を生かすことでこそ、各人の権利に折り合いをつけることができると思うのだが。