魚の天地

 私が生まれ育った富山では、鰤(ブリ)をよく食べる。大根と一緒に味噌で煮込む鰤大根は私にとって定番の魚料理であったし、米の変わりにカブラを用いるかぶら寿司もよく口にした。フクラギから出世した鰤は脂が乗り切っており、これに匹敵する魚はないというのが、小学生の頃の私の常識であった。
 仙台の中学校に転校し、初めての太平洋側で驚いたのが秋刀魚の味であった。富山のスーパーに置いてある秋刀魚は脂の落ちたものばかりだったので、秋刀魚はそういう魚だと思っていた。ところが仙台の秋刀魚は脂が乗っており、逆に鰤は耐え難いような食感だった。日本海側の街でも太平洋側の街でも同じ名前の食材を口にすることができるのに、その魚はこれほどまでに違うものかと衝撃を受けた。
 札幌の大学に入学したとき、仙台の経験があったから鰤を味わうのは諦めていたし、北海道の地の魚には大いに期待したのだが、その期待は大体において裏切られることはなかった。大学時代に安い居酒屋でいつも突付いていたホッケ、江差へ赴任してはじめてその透明な弾力を知った烏賊、カズノコがない方がむしろ身は美味しい鰊など枚挙に暇はないが、やはり一つ選ばなければならないならば、やはり鮭を挙げるべきであろう。
 鮭のイメージを悪くしていたのは缶詰の鮭フレークではないかと、今になって私は思う。缶詰であるためには均一な味でなければならないのだろうし、その必要により脂が抜かれているようでもあるのだが、それにしても魚肉ソーゼージに対するのと同様な冷淡さしか鮭には持つことができなかった。それが一変したのは、毎月小旅行をするという素敵な演習(一応は地理学2単位)のおかげ。4月は石狩浜で鮭の歴史を学び、6月は小樽でチャンチャン焼きを楽しんだ。そういう思い出と相まって、北海道の鮭のほとぼしる脂は、鮭フレークとは全く別物に昇華していった。
 富山、仙台、札幌、江差。わずか4都市だけでも、これほどに魚の味が違うのは、漁業が農業と異なり、自然にあるものを獲るという営みだからなのであろう。そして地理的な相違だけではなく、季節的な相違、旬ということも魚において重要となる。魚ごとに旬が異なり、その旬の味覚を味わいたいということは異論を待たないのだが、鳥瞰してみると夏が旬の魚は少数派であり、冬が旬の魚が多数派となる。
 畑の作物がめっきり減る冬。代わりといってはなんだが、冬の魚をこれからの季節、ぜひ味わってみたいものである。