誰がために天秤は揺れるか

yosuke0araki2005-06-25

 法学部の井川博教授と酒の席で話し込んだことがある。2001年の秋頃だったろう。昔の話なので私の記憶は薄らいではいるけれど、先生は、法学が人間の権利を緻密に論じながら、その法の外の世界;例えばアフリカなどの人々が飢え苦しんでいたとしても手を差し伸べることができないでいるというようなことを仰っていた。同じ人間であれば、生存権を脅かされている人をまず守らなければならないと。生意気にも私は次のように反論した。先生は人間という枠を判断に取り込んだけれども、そもそも人間という定義さえも主観的なものである。かつての人間は、文明人であったりキリスト教国の国民であったりした。将来もしかしたら、チンパンジーも人間として定義されるかもしれない。いずれにしても主観的なものなら、人間が創造した最高の枠組みである国家を基準にして、人間の生きるべきルールを考えるべきではないのかと。
 それから4年が経った。官庁訪問北海道庁への就職・海外旅行などを経験するうち、私の中で国家主権は相対的なものになっていった。今の私には絶対的な国家主権とその内面を支える法の関係を単純に支持することはできない。今もし先生に問われたならば、私は途方に暮れるに違いない。
 誰がために正義はあるのか?それは枠組みだけの問題に止まらない。資本主義と社会主義の対照や折衷だけで立法されるのは、きっと正義とは何なのかという基本的な問いかけに向き合っていないからだろう。私の知る最も明快な正義論を有する人物はマサチューセッツ工科大学のジョン・ロールズ教授である。ロールズは不平等を許容するためには二つの条件があるという(格差の第2原理)。第一には、機会が各人に均等に開かれていること。第二には、格差が最も不利な人にとって利益となるということ。ロールズの正義論は一見すると平等を過度に重んじているようだ。しかし、正義の検討に期待値を盛り込むとその世界は一変する。豊かな資本主義国において福祉を充実させることができれば、その底辺の人が貧しい社会主義国をはるかに上回る利益を享受できるのは想像に難くないだろう。その論理こそは、イデオロギー間のブレに依存する制度設計を打破するものであり平等主義であるとの批判は実はナンセンスである。
 そのロールズのほとんど唯一の弱点を突いているのが98年にノーベル経済学賞を受賞したハーバード大学アマルティア・セン教授だろう。センは、ロールズの正義論が身体障害者にも健常者にも同じ自転車を支給して事足りるとする主張だと批判した。確かに等号や不等号で正義の方程式を構築しようとする余り、ロールズが中味をあまり掘り下げなかったということはあるかもしれない。数式を駆使する近代経済学者のセンだからこそ、その数式の限界を見抜いたのだろう。ジェレミーベンサムジョン・ステュアート・ミルの対立構造を再現したように感じられなくもないが、両者の想う正義ある社会の対比は見事という他はない。
 私がこの二人を論じるのは、せめて後藤玲子「正義の経済哲学―ロールズとセン」『東洋経済新報社』を読んでからにした方がいいかもしれない。しかし公務員である私が、自分の仕事によって不利益を被る人の存在を意識するとき、幾許かのジレンマを感じざるをえない。そういうとき、正義とは何なのかを自分なりに考え、その世界を切り開いた二人の巨人の胸の内を想うことは、きっと無駄ではないハズだ。