白河楽翁候

yosuke0araki2004-02-11

 松平定信といえば寛政の改革。せっかく田沼意次が近代化を進めたのに、幕政を後退させた政治家というのが一般的な印象だと思う。少なくとも私は、彼と水野忠邦について、小さい頃そう思っていた。
 定信は、田安宗武の子である。田安家は御三卿の筆頭。順当にいけば定信は、田安家3代目そして将軍家11代目を継ぐはずだったが、田沼意次の策謀により白河藩に養子に出されてしまう。
 天明の大飢饉に際し奥羽で唯一、白河藩は餓死者を出さなかったが、そこには若き藩主としての定信の英明があった。日本で初めて四民平等に利用できる公園として南湖公園を造営し多くの雇用を創出した。達磨と蕎麦を白河の特産品として開発した。飢饉に際しては、米の備蓄をタイミングよく放出した。これらは、米からの年貢をただ受け取るだけでよかった時代に、非常に斬新なものだった。
 白河の奇跡は江戸にも聞こえ、藩の格からは考えられない老中への大抜擢となる。しかし改革は6年してようやく軌道に乗ろうとしているところで将軍の信を失い辞職した。11代家斉としては、将軍位を争った定信が名を挙げるのは面白いことではなかったのだろう。
 定信は当代随一の文化人でもあった。花月草子は楽翁と号した彼の作である。ちなみに金沢の兼六園命名したのも白河楽翁だそうだ。彼がいなければ文化文政における江戸の繁栄はなかった。

 国のトップが改革かいかくといっても、自ら捨石となるつもりのない人で、政局にばかり強いようでは改革はできない。守旧派の烙印を押されてもそれに甘んじ、他方で時代に受け入れられないような新しい考え方を持つリーダー。そういうリーダーこそ日本の今に必要だと思う。どっかにいないかなあ・・・