義経と芭蕉と私の旅

yosuke0araki2004-03-07

 昨日の青森からの帰路、海峡線から津軽線に乗り換えた。終着駅の三厩義経伝説の地である。藤原泰衡に裏切られた義経は平泉を落ち延びて宮古から海路を津軽に入る。竜飛岬の付け根にあたる三厩まで追い詰められた彼が仏像を彫っていると荒れる海峡は穏やかになり、蝦夷地の江差に渡ることができたという。聖書の出エジプト記におけるモーゼを思い起こすような場面だ。義経が彫り、後に円空が加工した仏像が安置されている義経寺へは行く時間がなかったのは残念である。しかし、海高く揚がる飛沫を見ながら雪の降る音を聞いていると義経の想いが偲ばれる。
 義経の逃避行は歌舞伎で名高い安宅関から始まる。富山湾立山連峰が浮かぶ雨晴、義経伝説が残るこの地の近くに小さい頃私は住んでいた。それから義経は、出羽三山、新庄、鳴子、岩出山などを経て平泉に入るが、仙台の中学生時代に私はこれらの地で義経への感傷に浸っていた。そして今、江差から三厩を訪ねると、やっぱり義経が生きて北海道へ渡ったように思えてならない。

 もう一人、北陸・東北の旅人を私は知っている。元禄の俳諧を生きた松尾芭蕉である。江戸から奥州平泉・羽州象潟を経て北陸路を大垣まで半年かけて歩いた奥の細道は、数々の名句を生んだ文学の旅であると同時に、笈の小文や更科日記などの旅に月日を重ねた芭蕉の人生の集大成でもあった。だから、今でいう観光スポットを訪ねて気分良く一句といった生半可なものではなかった。日光も華厳の滝へ行かずに裏見の滝へ行ったり、ハイライト松島であえて句作しなかったり、事実とは異なる市振での遊女との出会いを描写したり、挙げれば切りが無いが、この旅に人生を賭けていたからだと考えれば全てが納得できる。

 今日、交通手段の発達などにより旅の状況は革命的に変化した。そして、国内の旅はあまりに身近であるが故に義経芭蕉の距離感とはかけ離れたものになってしまった。どこへでも行けるのは、もちろんいいことなのだけれども、今一度彼らの旅と人生に想いを馳せるというのも大事な事ではないかと感じている。

 旅に病んで夢は枯野を駆け巡る 芭蕉