和歌について

yosuke0araki2004-04-10

 和歌。大上段に構えてしまい途方に暮れている。そもそも私が百人一首を覚えたりしていたのは20年も前のこと。それ以来、和歌について見識を深める機会を得なかった。そもそも人間の内面を伝えるという文学の使命を達成するには原稿用紙百枚は必要だと思う。わずか三十一文字では粗製濫造ということにもなる。しかしその私に、これはいいなあと思わせた和歌がある。
 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮れ
 百人一首の編者、藤原定家の作である。そもそも日本人が夏や冬よりも春や秋を好むのには、過ごしやすさもあるだろうけれど極限状態を敬遠するということがあるだろう。暑さ寒さを繰り返しながら移ろいゆく不安定さこそ春や秋の本質であり、桜と紅葉はそれをこそ強調している。ところが、その美意識は洗練されるあまり、桜や紅葉を極限の美としてとらえるようになってしまった。
 願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃
 西行法師のこの歌は、まさにそういう歌である。しかしそういう美の追求は、日本の美意識をただの暑さや寒さと同様な淡白なものにしてしまった。古今・後撰・拾遺・後拾遺・千載・金葉・詞花和歌集によって袋小路に入りつつあった和歌集の淡白な美意識への反逆が新古今和歌集であったと私は考えている。
 話を百人一首に戻せば、小学生の頃の私が最も好きだったのは
 大江山いくのの道も遠ければまだふみもみず天の橋立
 という歌だった。文字数が極小化されている以上、そこにどれだけメッセージを凝集できるかが重要だと私は考えていた。そのための手段こそが掛詞。しかし20年たった今になって感じているのは、凝集する必要なんてないということだ。どんな断片でもいい。自分の内面のうち未知のものを引き出す、そういうことこそが和歌の中で求められる営みだと思う。そういう和歌の実験を前提にして百枚の原稿は生まれるのだ。
 最後に「一握の砂」から弟が発見してきた石川啄木の歌を紹介したい。
 一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねと祈りてしこと
 私を含めてほとんど全ての人は嫌悪を感じるであろうし、その意味で啄木の実験は失敗しているといってよい。しかし、人間は他人に素直に感謝だけできるほど単純なものなのだろうか。啄木と同郷の宮沢賢治は「そういう人間に私はなりたい」と言っているけれど。人が目を背けたくなる内面に真摯に向き合おうとした啄木のこの歌こそ、私たち普通の人間には持ち得ない誠実さであり、和歌の心であるのかもしれない。