配分から分配へ

yosuke0araki2004-04-17

 私が初めて経済学を学習したのは高2の頃の公民の時間だった。担任でもあった森秀裕先生は受験に直接関係のない教科であるのをいいことに教科書は無視して朝鮮史だとか日独の選挙制度比較だとか自分の興味の趣くままに勝手な授業をしていた。しかし、これらのテーマは10年を経た今日の社会を見つめるときに、大きな意味を持つものである。今さらながら先生の先見性を思う。
 消費性向をr、財政支出をG、経済効果をSとしたとき、
S=G+rG+rrG+rrrG+rrrrG+・・・・・
rS= rG+rrG+rrrG+rrrrG+rrrrrG+・・・・・
(1-r)S=G
S=G/(1-r)
 この手の初歩の初歩の経済学の時間もあった。並行して数学の時間に数列を学習していた私には、抽象的な数学の世界と現実に私が生きる社会との接点を見たように感じられた。非常に新鮮であったのを記憶している。
 90年代には、費用と便益の相対的な関係を無視した行政によるムダな事業、それに取引先企業の経営実態を無視した金融機関によるムリな融資が社会的な批判の対象になった。官庁や銀行といった社会的に高い評価を得ていた機関が、中学生の直感でも間違いだと思うような選択を重ねたことは衝撃に値するし、その原因が巨大組織の意思決定のプロセスにあるという議論にも説得力があった。そして誰でも納得できる公正かつ客観的な意思決定の材料としてデータが大きな意味を持つようになり、その数字を操り政策論に資する計量経済学が多くの人にとりあげられるようになった。公共事業において費用便益分析がなされて、その結果として中止に追い込まれるというような事例は枚挙にいとまがない。
 しかし停滞の苦しみを味わいながら膿を出している今日の日本において、計量経済は万能で有り得るか、鮮やかな手際を見る度に私の疑問は深まる。数字の魔力は絶大であるけれど、どの指標を選択するか、係数をどうするかによって、導くべき結論は180度異なることもある。例えば、農業の波及効果まで考えれば農業保護のコストに見合っているという主張があるけれど、そこではその保護に必要なコストを製造業に投じたときの波及効果まで論じて比較衡量しているわけではない。計量経済学は重んぜられることによって、不確実なものを取り込み客観性を失っていると思う。
 それならば、どうやって政策決定をすればいいのだろうか。唯一の正解というのは今日存在しないだろうが、私は、特に行政を見るとき、正義に拠ってたつつもりでいる。様々な立場の人が生きるこの世界、限られた資源をどう分配するのが正しいのだろうか。もっとロールズを読みたい。ロールズとの対話を経て、いつか分配の正義を提示したい。