不破の関

yosuke0araki2004-05-23

 壬申の昔のことである。大化の改新の立役者である天智天皇崩御すると、その太子である大友皇子大海人皇子皇位を争った。弘文天皇と諡される大友皇子の軍は不破の関に防衛線を張る。これに対して大海人皇子は関外の小山に布陣して将兵に桃を配ったところ指揮は高まり、一挙に関を破ったという。近江朝廷は万策尽きて天武天皇が即位する。
 歴史は繰り返されるということか。約千年後、桃配山には徳川家康が布陣した。不破の関は廃止されて久しいけれど、街道が交錯する関ヶ原の軍事的な重要性は変わらない。ここを抜けば石田三成の近江佐和山城まではすぐである。しかも野戦は家康の最も得意とするところ。事前のダイレクトメールも効を奏し西軍を内部から切り崩していた東軍の楽勝だと思われていた。事実、西軍優勢だった一時期もあったけれど小早川秀秋の裏切りにより勝敗は一日で決し江戸幕藩体制の基ができた。
 しかし戦術的・戦略的には、実戦経験のほとんどない三成の方が上手だったように私は感じている。要塞でもある松尾山を要としたその布陣は、明治政府の軍事顧問メッケルをして西軍勝利を断言させた鶴翼の陣である。さらに私は、松尾山の小早川の裏切りにも耐えうる布陣であったとシミュレーションしている。9月15日、その日だけでも大谷吉継の指揮下にある4将が小早川を食い止めればよい。実際、大谷勢は一旦は小早川勢を撃退している。14日には京極氏の近江大津城、13日には細川氏の丹後田辺城が陥落しているから、16日には3万の大軍が決戦場に到着するはずだった。真田氏に翻弄された徳川秀忠の4万が関ヶ原に到着するのは19日。この間の数日の西軍優勢が伝われば大阪の豊臣秀頼毛利輝元も出陣して大勢は決まったことだろう。
 しかし、そうはならなかった。朽木以下4将は小早川に連動して上役である大谷吉継に攻めかかったのである。この第二の裏切りが致命傷になり西軍は崩壊した。私は、もっと大きな三成の敗因として、その復古主義的な勢力均衡のイメージがあったと思っている。三成は岐阜の織田秀信に濃尾二ヶ国、真田昌幸に甲信駿三ヶ国、上杉景勝に越後を約束している。これは織田・武田・上杉らの群雄がひしめいていた時代の再現である。そこには三成の旧主浅井氏への想いもあったのだろう。しかし、時代は変わっていた。平和を知った人々の厭戦感は強力な体制を求めた。その流れに乗った家康という人間の大きさが、戦略や戦術を超越したのが9月15日だった。
 時代は下って平成。首都機能移転の候補地として北関東と濃尾平野が挙がっている。移転のコストなどを現実的に試算すれば、東京にとどまるのが上策、北関東が中策、濃尾平野は下策となろう。しかし二度の戦いに見られるように、ここは東西の衝突する地であった。西側の地盤沈下が囁かれる今日、もう一度この地に力を与えることは、時間的な価値観を持ったとき大きな意味を持つ。国会でなくてもよい、何らかの日本の中心は、この地に移転すればいいと思う。