士幌高原に吹く風

yosuke0araki2004-06-13

 私と士幌町との関わりは、学生寮が二十余年前に士幌高原に建てた小屋「チセ・フレップ」の運営委員をしていたときに始まる。
 士幌高原は、十勝平野大雪山系の接するところにある。ここチセフレップのすぐそば、大パノラマに臨む三人の像がある。士幌へ来たら何をしてもよい、ただこの像にだけは悪戯しないように、そう寮生が長年戒められてきた像である。
 秋間勇・飯島房芳・太田寛一の各氏、彼らが力を合わせて貧しい農村を盛り上げていこうと誓ったのは昭和20年代のことだった。桃園の誓いを思わせる彼らの志は、衰えることなくやがて士幌を中札内村と双璧たる豊かな農村に押し上げていく。獣医師の秋間氏は早世するものの、飯島氏は士幌町長となり、太田氏は士幌農協からホクレンさらには全農の会長にまで上り詰める。
 私は、彼らひいては士幌そのものの成功には、その先見性が大きな役割を果たしたと考えている。農村が一次産業にとどまる限り、その発展は有り得ない事をいち早く見抜き、士幌農協はジャガイモ処理場などの大規模な工場を幾つも建設する一方、ヨツバ乳業(株)を設立するなどし、市場や消費者により近い事業も手がけていった。戦後すぐの頃から、このような方向性を見失わなかったというのは、現代の高みにたったとき、いかに大変なことだったか察せられる。
 士幌農協だけでなく、士幌高校も独自の存在である。この町立の農業高校では恵まれた実習環境を生かして独特のカリキュラムを深化させてきたという。高卒者を対象とした専修科を設置は、高校生も含めた教育レベルを向上させた。ここの実習で加工されたハムなどの食品は廉価で町民向けにも販売されているが、その味はデパートと比べてもひけをとらない。
 この士幌町、交通行政については数十年の間、劣勢が続いている。帯広から北進する国鉄士幌線はJR民営化と前後して廃線となる。悪い公共事業の代名詞とされたのは士幌高原道路だった。士幌の中心部から士幌高原、ヌプカシヌプリを経て然別湖までを結ぶはずだったこの道路は、ナキウサギなど環境に与える影響、費用便益分析などの考慮により建設中止となった。事業主体である北海道庁の「時のアセスメント」は世論に支持され、事業再開の見込みはない。
 無駄な公共事業がいらないという一般論は否定しえない。しかし、士幌三偉人の像の前に立って十勝平野を見下ろすとき、高原道路が不要なものであると言い切ることはできなかった。火山灰土で作物が育たないと言われていたこの高原は、自然と人間をつなぐ道路の結び目になるとき、農業に関わる叡智を集約させる場となるはずだった。計量経済の分析では見えない価値が、三偉人のビジョンからは見える。問題は、そのビジョンに共鳴できるかだ。
 たまたま士幌町の青年部の人達と懇意にする機会を得た。代表のIさんは、三人もの指導者を生んだからこそ、豊かな今の士幌があるのだけど、それに引っ張られてはならない。一から始めるつもりで新たな士幌を作るリーダーシップが必要だと言われた。士幌ブランドではない、ぼくはIブランドでやっていきたいとも言われた。偉大な事業は高い志から始まる、Iさんと酒を飲みながら私は二十台の頃の三偉人の誓いを思い浮かべていた。