私の中で構築する文明

yosuke0araki2004-07-04

 日本で和魂洋才といわれていた百年前、韓国では東道西器、清国では中体西用ということがいわれていた。三者は思想の構造が驚くほど類似している。つまり精神的には自国を、物質的にはヨーロッパを優れていると見なし、その良いところだけを採用しようというものだった。
 その後、三つの帝国は全く異なる百年を歩んだ。互いに関わり合いながらも、交わることのなかった百年。そして今日、奇しくも三者が共に世界の大国として認められるようになった。
 私は「モノの豊かさから心の豊かさへ」といったステレオタイプな議論は好きではない。しかし欧米流の資本主義の下で物質的に充足してきた今こそ、その精神的な側面を深く掘り下げていくことが必要である。それは単に物質から精神へのシフトということではなく、精神や心という抽象的な言葉を、何の反省もなく方便として使ってきた私たちの自戒としてである。
 国レベルでもすべきことだが、まずは私自身について。私は、日本文学・東洋史学・西洋哲学を背景に、自分の考え方が構築されていると感じている。文学・史学・哲学は、いずれも人間とは何か、根元的なところから問い直す学問である。しかし、それぞれに長所・短所があり、今までの人生はこれらをアラカルトした。
 文学は、言葉を命とするものである。コーランは翻訳を禁じているというが、翻訳した時点で、文学は作者の言葉から訳者の言葉に置き換わる。あらすじだけを楽しむなら、事実は小説よりも奇なり、文学よりも有意義なジャンルは存在するはずだ。それなら、多様な作品を原書で読めばいいものだが、語学に怠惰な私は日本語に閉じこめられてしまった。
 史学の最大の魅力は時間的な広がりである。この意味で紀元前からごく最近まで、常に世界の中心でありつづけた中国には憧憬を禁じ得ない。さらに中国史は、史記などによりリアルタイムに消化されてきている。ときには自分史と重ね合わせることは、生きることを力強く支える。
 哲学に関心を持ったのは比較的最近のことである。実存主義構造主義の対立軸を私は自分の中で組み立てようとしている。一見するとこの対立は、自由主義社会主義、合理論と経験論、さらにはソクラテスソフィストの対立にはじまる枠組みと何ら相違がないように思える。しかし、二度の大戦を乗り越えて両思想は飛躍的に精緻化した。実存と構造の複眼で見ることにより、社会は立体として私に入り込むはずである。
 もちろん私の人生は始まったばかりなのであり、これからその精神は変貌していくだろう。しかし多くの文明を享受して今日の私がいることは忘れてはならない。