日露戦争百年

yosuke0araki2004-08-01

 平成16年は日露戦争開戦より百年にあたる年である。さらに黒船来航による開港から百五十年。開国から半世紀を駆け抜けた日本の大きな到達点が日露戦争であり、それからその倍の年月を経て私たちは今日を生きている。
 当時は列強による世界の分割がすすんでいた。列強のロシアを単に一時的に撃退しただけではなく、主力軍同士の野戦で勝負を決したことはアジア諸国に大きな希望を与えた。
 この日露戦争の勝利は、もちろん陸海軍による連戦連勝の軍事行動がある。しかし、その背景に様々な試みが蓄積されていたことを銘記する必要がある。高橋是清(後の首相・蔵相)はロンドンに渡り日本国債を売りさばいた。日英同盟期間中とはいえ勝利の見込みがたたない中で投資家の心を動かすのは大変なことだっただろう。明石元二郎(後の台湾総督)はぺテルスブルクにてレーニンらを支援し五月革命をおこさせた。金子堅太郎はセオドア・ルーズベルト大統領との人脈をいかしてアメリカの仲介を得た。小村寿太郎(外相)は大幅な妥協を余儀なくされながらも、ポーツマス平和条約で日本の勝利を確定させた。森林太郎ペンネームは鴎外、後の軍医総監)は、クラウゼッツの戦略論を和訳して戦争のデッサンに役立てた(脚気対策には失敗して数個師団分の兵力を失ったけれども)。これらの動きは誰かが統制したというよりは、死に物狂いの個々の策がたまたま有機的に結びついたという側面が大きいだろう。だが、たまたまやったことが結果になる、それだけの勢いが当時の日本にはあったということでもある。
 「坂の上の雲」というのは司馬遼太郎氏の小説のタイトルだが、日露戦争を表現するのにこれほどふさわしいものはない。雲を掴もうと我先に坂を駆け上がった。しかし、いざ坂の上にたどりついたとき雲ははるか頭上にあり、でも登るべき坂はない。しばらくするとアジアも、列強に新しいメンバーが加わっただけだと受け取るようになるのである。
 満州軍総司令部と第1・第2・第4の各軍は一路北進して遼陽・沙河・黒溝台を転戦する。途中、旅順要塞を陥落させた第3軍と合流して翌年3月10日には日露両軍総勢60万人による奉天会戦に勝利する。他方で連合艦隊は大西洋側から来援したバルチック艦隊を5月27日には日本海海戦で壊滅させるというのが軍事行動の概略である。その生き方への評価もあいまって乃木希典第3軍司令官と東郷平八郎連合艦隊司令長官のみが後年まで有名になったように思える。しかし乃木には旅順攻略は荷が重く大きな犠牲を払った。どうしても師団長ではなく司令官として起用するのであれば、せめて上原勇作に参謀長として補佐させるべきであり、大本営は人選を誤ったといえよう。むしろ大山巌黒木為禎奥保鞏野津道貫・上村彦之丞・片岡七郎はいずれも当代の名将であり、参謀も綺羅星のごとくであった。川上操六・田村怡与造の亡き後「第三の孔明」と言われた満州軍の児玉源太郎参謀長、それに知謀あふれるがごとき連合艦隊秋山真之作戦参謀が天賦の才を駆使したのはそのとおりとしても、満州軍の田中義一作戦参謀や連合艦隊加藤友三郎参謀長が無能であったわけではない。後に加藤と田中が総理大臣にまで栄進することは、それを傍証している。
 日の当たるごく一部の人の背景に、多数の人の快挙が積み重なっている。そういうプロジェクトXみたいな結論になってしまうのは嫌だが、百年前のことを想うとどうしても多様な人間の魅力にひかれてしまう。