第131回 芥川賞選評

yosuke0araki2004-08-22

 今月の文学界に片山恭一氏が興味深いことを書いていた。「世界の中心で愛を叫ぶ」の執筆中にレビナスを読んでいたというのだ。レビナスといえば、ハイデガーの一番弟子である。当時、氏は他にデリダにも惹かれていたという。
 私は「世界の中心で」を全く評価していない。この小説の300万部という記録は、小泉内閣の支持率90%と並んで、日本人の価値観喪失の象徴であろう。しかし、レビナス等が注目していたのは、時間という軸、そして時間に制約される人間の存在であった。氏が書きたかったのは、絶対的な時間の制約であるところの「死」であった。氏にとって「愛」は「死」を浮き彫りにするための小道具に過ぎない。
 もちろん、大衆がこれを「愛」の小説だと受け取った(その誤解が大ヒットに結びついたのだけれど)責任は氏が負わなければならない。だが、氏が人間と時間の問題に挑戦し続けるならば、そんなことをしたら間違いなく数年で忘れられるだろうが、私は応援していこうと思った。

 さて、話題沸騰の前回とは打って変わって第131回芥川賞には、ほとんど関心は集まらなかった。その中で、ほとんど唯一メディアに取り上げられたのは「好き好き大好き超愛してる」舞王城太郎だろう。覆面作家ということもさることながら、純愛・不治の病・死という3要素を取り入れたストーリーは、作風こそ異なれども「世界の中心で」と同じヒットの要件がある。私は、この作品についても前掲と同様に作者の「愛」が一体どういうものなのか提示されていないことが文学作品として致命的であると感じている。この作品が生きるためには、現実と混沌した夢の世界に書きたい事をぶつける必要があった。
 夢と現、この領域に深く食い込んだのは「オテル・モア」栗田有起だろう。良質の眠りを提供する地下ホテルでの仕事、病院通いの甚だしい双子の妹とその家族、この二つの軸から現代の普遍的な問題を浮かび上がらせている。たしかに、宮本輝が双子の妹が余計だといい、山田詠美が地下ホテルについて冗長すぎるといい、池澤夏樹は両者が有機的につながっていないといったのは、それぞれに思い当たるところはあり、作者の試みがいかにハードルの高いものか認識させられる。しかし、これら選考委員の難しい注文を満たしたところに新たな境地は開ける。
 仕事と家庭を象徴的に組み合わせることに成功したのは「勤労感謝の日絲山秋子だろう。失業中の主人公がエリートサラリーマンとのお見合いの途中で厭になって出てくるという話。うまくまとまっているのだが、この賞の候補としては些か短すぎる。このお見合いから、どういうストーリーが生まれるのか期待した読者も多いはずだ。逆に、ダラダラ引き伸ばす中で設定の持つ魅力が薄くなってしまったのが「日曜農園」松井雪子だろう。失踪した父の農園とホームページを引き継ぐ娘の話。断片の描写はリアルで魅力的なのに、それがページをめくるとき何故かギコチナク感じられるのである。作者がもともと漫画家だと知って納得がいった。一瞬で視界に入る漫画と、読むために時間を要する小説、この差を無視するから漫然とした印象になるのだ。
 さて、受賞は「介護入門」モブ・ノリオになった。私には全く意外であった。介護を題材にした小説は掃いて捨てるほどあるが、その中で本作品は珍しい絶叫調、そして主張は一般的なモラル・常識を感じさせるものであるという独特のスタイルが評価されたようである。しかし、この声量の大きさに、私は普遍的なものを生み出す力があるのか疑ってしまう。文学界新人賞はあげよう、芥川賞はもう一作待って見きわめよう、というところかな。それに、同じ介護を扱った作品として「弔いのあと」佐川光晴の方がどうしても見栄えがする。作者が北海道大学法学部出身で作品にも大学が出てくるから贔屓目になっているということはあるかもしれない。ただ、一人の老婆の死によって浮かび上がるグループホームの人達が軽いタッチで、しかし暖かく描かれている。選評に登場人物がみんないい人過ぎるというものがあったが、これは当てはまらない。人物が優しいのではなく、作者の眼差しが優しいのである。寒々とした現代に、人の温もりを見るこの眼差しはもっと評価してもいいと思う。

 前回は「○-綿矢、△-絲山」だった。今回は「○-栗田、△-佐川」といったところだ。こういう選評は選考会の前にすべきかもしれない。しかし文学界掲載以外の候補作に目を通そうとしても、どこにも置いてない。前回は盛岡、今回は青森の図書館でようやく読むことができた。江差ならいざしらず、盛岡・青森と同規模の都市である函館なのだから、図書館に群像や新潮くらい置いて欲しいと思うのだが。