恵迪寮

yosuke0araki2004-10-28

 恵迪寮というのは北海道大学学生寮のことである。私は4年間ここに住んでいた。
 寮生活には6月からの夏の期と12月からの冬の期があり、期毎に過ごし方を選ぶことができる。特に、どういう部屋に籍を置くかが半年を決定する。私は268期に入寮して276期に退寮した。少し前には飲酒による死亡事故や女子入寮に伴うゴタゴタがあり、寮のあり方が模索されていた時期の入寮だった。私は寮自治など関わるつもりはなかったのだが、たまたま空いていたのがC3内:さゆり荘だった。左翼崩れのケスケさんと変態写真家のカナメさんが作ったこの部屋が、寮における私の位置を形成してしまった。とはいうものの、生活の激変に圧倒されていただけで、寮そのものに情熱を持っていたわけではない私は269期には、C4にひきこもった。幸運だったのは、一市くんの適当さのために飲酒事故防止対策特別委員会(事故対)委員にされてしまったことや、さゆり荘の頃に知り合った上の年目が引き立ててくれたことである。また、部屋毎に選出される代議員のなり手が他にいなかったため、代議員会の常連になってしまった。こういう中で、寮もなかなか捨てたものではないなあと感じるようになった。270期はA4外:図書ぷよを発起して図書委員長になった。本の読み回しの推進という方針の下で、マンガ市・エロ本市などを実施した。図書委員長は図書委員会を主催するとともに文化活動常任委員会(文常)委員にも充てられている。一年目としての新歓もあり多忙ではあった。271期にはC3雑誌ローリングサンダーには所属した。寮との関わりを切りたくない一方で骨休めをしたいという気持ちでここを選んだ。しかし、大いに裏切られた。人生経験豊富な大神さん関野さんや、前副寮長の坂内さんの見識に圧倒されて、自分は何も書けないのだ。自分が物事を薄っぺらくしか考えていないことが明らかになるというのは、非常に不愉快な事だった。寮で使われるゴクいという言葉が私にとって最も当てはまったのはこの部屋だった。272期はC5外にひきこもったが、カジマくんや山西くんのような腕白な下の年目が入ってきたのは、私にとっては幸運だった。273期はA4外:あらき対応。あらきが全寮に迷惑をかけないように部屋内に封じ込めるというひどい名前の部屋だったが、その生活は充実していたように思う。2度目の事故対で寮外活動を担当した。他大学での情宣や、同じように事故があった剣道部との連携などアイデアを振り絞った。その中で最もインパクトがあったのは、寮自治会として、お酒に関わる正規の授業をつくるよう大学当局に働きかけるという「お酒の科学」プロジェクトだろう。寮を根城に寮外との関わりを持っていこうというのが、私の基本路線になっていたからE5外にひきこもった274期には情宣PTに所属した。寮のHP立ち上げが課題になっていた頃だったが、私自身の知識不足もありオリジナリティーのあることはできなかった。この期に選定された平成11年度寮歌、作歌した清華の誓いが当選の僥倖を得た。しかし、選定当初からあまり歌われていなかった。高邁な志を持って寮で社会で生きたいという願い、届けるのが私の責任であったと感じている。275期は3度目の事故対、もはや一線を退き助言するのが主になってはいたが、お酒の科学を軌道に乗せるのは私がやらねばならなかった。部屋はA3外に士幌小屋「チセ・フレップ」運営特別委員会を構えた。ここでのメインの出し物は、士幌高校専修科と北大旧教養部との交換留学を寮として斡旋するというものだったが、代議員会で議案が通らず遅々としていた。グイツさんの知識と鈴木くんの行動力に感服しながらも、本質的なところで共有するものの大きい笠谷くんにばかり依存してしまう私だった。でも、小学生を小屋に迎えての林間学校は楽しかった。276期はE3外にひきこもったけれど、茂木委員長が引き継いでくれた士幌には卒業まで留任した。町の青年団の来札や、委員会の役場・高校訪問など次への息吹が感じられる期だった。そして私が卒業後の4月、お酒の科学が2単位の人気科目として開講した。
 人生の価値は、どれだけ魅力的な人間と接触できるかというところで決まると、どこかで聞いたことがある。4年間の寮生活、私は様々な選択を振り返って後悔もあるけれど、得たものをかけがえなく思って心で暖めている。