第132回 芥川賞選評

yosuke0araki2005-01-09

 つねづね、選考会前に選評をしたいと思っていたが、今回ようやくできそうだ。私の見方が13日(木)築地・新喜楽での発表と比較してチンプンカンプンであれば、この稿はその日以後は甚だ格好の悪いモノになるんだけれど。その前に、より多くの人の目にこの稿が留まればよいと思っている。
 今回の候補作は7編。「文藝」が「文学界」と並んで2編あるのが目立つ。しかも「文藝」の2編は「すばる」の1編とともに、新人賞受賞作品である。文藝賞受賞作では、田中康夫「何となくクリスタル」などが芥川賞候補作になったことはあったが、受賞作はない。それどころか去年、綿矢りさが受賞するまで、文藝賞芥川賞のダブル受賞者もいなかった。これは「文藝」が輩出する作家の作風と芥川賞の方向性がかなり違ったからだろう。しかしここ数年、藤沢周らの主導するJ文学は、純文学全体を揺さぶりつつある。純文学の揺らぎが、識者の愁う文化の衰退なのか、成長のための脱皮なのかは、私には分からない。
 メディア露出度ということでも、文藝賞受賞の白岩玄山崎ナオコーラは群を抜いている。白岩玄野ブタ。をプロデュース」は人に不快感を与える醜いイジメられっ子の転校生を、クラスの人気者にするという話。終わり近くまで楽しく読んでいたが、ひょんなことから友人を見捨てた語り手が、土壇場でクラスの総スカンを喰らい転校するはめになる。あまりに簡単に嫌われ者が人気者になり、人気者が嫌われ者になる。見方が独善的・一面的ではあるものの、この対比によって学校の(あるいは社会における)人間関係の脆さ危さを具体化しているこの作品の骨の太さには感心させられた。ただし、タイトルの「。」にも示されている現代的な言葉使いは、独白するところのボケ・ツッコミにも発揮され、これが小説としてはあまりに軽薄に感じられる。彼の意図は、テレビでも漫画でも達せられる。最初からメディアミックスを企図するならともかく、小説であるためには、小説でなければならない、言葉の力を引き出す必要がある。例えば「蹴りたい背中」は、いずれ映画化・漫画化されるかもしれないけれど、彼女が書いた「蹴りたい」という感情を他のメディアで表現するのは不可能なものだろう。こういう言葉の力に思いを致したとき、私は彼の受賞には反対である。山崎ナオコーラ人のセックスを笑うな」は、恋愛小説としての軽さに好感は持てる。小説の語り手の多くが作者に近い存在であることが多い中で、女性の作者が男性の立場で恋愛を語ることの新鮮さもあるだろう。しかし19歳の男子学生と39歳の女性講師という年の差の舞台装置が全くといっていいほど生かされていない。39歳を24歳と読み替えても何ら違和感がないようではタイトルだけが浮かび上がってしまう。
 「すばる」の「漢方小説」も新人賞受賞作である。作者は脱稿後「負け犬の遠吠え」を読んで、ネタがかぶっていることに愕然としたというが、今や独身30代女性の焦燥感というのは絲山秋子にも通じるひとつの潮流になっているのだろう。全ての人が20代前半までに仕事も家庭も定めて、それからの長い人生をその路線に乗っていくという時代は終わった。仕事のあり方・家族のあり方が多様化する中では、自分のそれへの不安感が大きくなるのは当然だろう。そして恋愛も仕事も上手くいかない30代女性について語ることで、この不安が表現されるというのは時代の必然だと思う。しかし、この小説では読者だけではなく作者までもが時代の傍観者になっている。救急車で運ばれた後、漢方医師に淡い恋心を抱きながら、「青テント」の飲み友達との人間模様を織り交ぜながら、漢方治療で回復していく主人公を描くというのは、あまりに小さくまとまりすぎている。訴えかけるものが伝わってこない。
 ところで芥川賞、本来は作品に対して授与するものではあるけれど、その賞の権威が絶対的になってしまった今日、その作者が受賞者として相応しいかどうかも吟味される必要があるだろう。そういう意味で私は、新人賞を受賞してデビューしたばかりの新人がその一作で芥川賞を同時受賞するのは例外的なことだと考えている。誰もが認める圧倒的な力を持つ作品ならともかく、そうでなければ今までの作品から作者の実力を見たいと思うのだ。今回は、作家としての実力を今まで示してきた二人が、非常に魅力的な作品を書いている。二人とも10年以上前から芥川賞候補になっておりキャリアがあまりに豊かなので、新人であると見なされるかは疑問だが、私としてはおそらくラストチャンスであろう今回、ぜひ受賞してほしいと思っている。阿部和重石黒達昌のことである。
 阿部和重グランド・フィナーレ」(群像)は、ロリコンゆえに家族も仕事も失った中年の男が、故郷に帰り二人の少女に出会うという話である。卒業したらもう会えないかもしれないという二人に演劇を教える男が、彼女たちを通して自分の崩壊した人間関係を省みるその細やかな心理描写が舞台設定の見事さと相まって、社会全体が共有する病理を炙り出している。ただ友人のロリコン暴露話によって物語が急展開するまで100枚近い部分があまりに単調なのが不満である。
 石黒達昌「目をとじるまでの短かい間」(文学界)は、大学病院を辞した田舎の医院の医師が、いくつもの死を見送るという話である。つい平成元年に受賞した南木佳士ダイヤモンドダスト」と比較してしまう。「ダイヤモンドダスト」では死の無常観を際立たせる装置として季節が効果的に使われていたが「目をとじるまでの短かい間」では、そういう自然の描写が中途半端である。しかし妻と初恋の人への気持ちの表現は緻密である。死の床にある初恋の人の「抱いて」という言葉を医師として受け入れることができなかったその夕方、自分の娘があまりにも自然にその人を抱いて寝ているのを見るという場面。この場面が私の心に焼き付いて離れない。
 井村恭一「不在の姉」(文学界)は、久しぶりに再会した姉とともに肉と酒の店を出すという話。プロジェクトものなのだから、その経営は合理的にしてほしいと思うのだが、東京地下に住むブタを狩って肉にしているというのが、小説の中軸に据えられてしまった。それならそれで、その地下をもっと魅力的なものにできなかったのか。田口賢司「メロウ1983」(新潮)は、外国を舞台に小説の断片をつなぎ合わせていく手法。つなぎあわせて大きな絵になればいいのだけれども最後まで「Fack!」しか見えなかった。私の読み方が悪いのかもしれないが、少なくともこの小説に好感は持てなかった。

 以上が、今回の候補作への私の選評である。受賞作については、本命○石黒・対抗△阿部というところだろう。