日本の戦争責任

yosuke0araki2005-01-22

 12/8真珠湾、8/6ヒロシマ、8/9ナガサキ、8/15玉音放送というのは、日本人の常識だろう。しかし日本が太平洋戦争に突入したのが7/7がだということは、意外に知られていない。昭和12年のこの日、北平(北京市の旧称)近郊で対峙していた日中両軍が一発の銃弾をきっかけに衝突して8年にもわたる悲惨な戦争が始まった。
 何百万もの死者を出した戦争の、この最初の銃弾は誰の手によるものだったろうか。前後の状況からすると日本軍ではないだろう。当時、参謀本部では総長の閑院宮戴仁元帥は戦争責任を負わない皇族であり、次長の今井清中将、第二部長渡久雄少将は重病だった。支那駐屯軍司令官の田代皖一郎中将も重病。職務代行する数人の少将だけでは、とても大規模な戦争への意思決定をできるものではなかった。そもそも日本は半世紀にわたりロシアを仮想敵国として、その脅威に対処するために韓国・満州へ軍を進めてきた。だから北平で事を起こして中原へ南下するのはロシアに背を向けることになるのである。戦略的なメリットはない。
 北平現地部隊の状況はさらに厳しい。北平近郊における中国国民党の兵力は3個師。これに対して日本軍は河邊正三少将の1個旅団のみ。しかも河邊旅団長以下2個連隊は山海関方面に展開しており、北平には牟田口廉也大佐の1個連隊が残るのみだった。いわば日本軍は中国軍の20分の1の規模だったのであり、事を起こす戦術的なメリットはない。
 実は国民党の側にも日本と戦争をする理由はなかった。当時は国共内戦の只中にある。前年末に西安事件があったけれども、蒋介石の思惑は、孫文の後継者としてまず中国を統一することにあった。だから当面の敵は共産党なのであって、これ以上の南下をしない限り日本ではない。
 夷を以って夷を制す。この銃弾は後に国家主席となる共産党劉少奇によるものであるという説が根強い。人民軍の教科書における記述、事件後の共産党の手回しの良さなど状況証拠は多いが、もちろん中国政府が認めるところではない。しかし私はこれが真実だと思う。
 だから日本には戦争責任がないのかというと、私は全く逆の結論を導かなければならないと思う。胡錦涛の率いる中国共産党政府に対する謝罪の必要はないかもしれないが、日本が中国の人民に多大な損害を与えたという事実は、人民に対する補償を必要とするからである。むしろ戦争について真摯な反省があれば、開戦という重大事件についてもっと関心を持つべきなのであり、それがなされていないことにかえって日本の不誠実さを感じる。戦争といって、ヒロシマナガサキを想起するだけの被害者意識だけが見え隠れするのだ。
 日本の戦争責任を問う声に対しては、凡そ次のような批判がされることがある。第一に、サンフランシスコ平和条約以降、戦争関係の各国との条約等により国家間での問題は解決済であること。第二に、戦後の軍事法廷でA級7人をはじめ、BC級では1000人近くが処刑されていること。第三に、ヒトラーの下でホロスコープを実施したドイツとは異なり、日本の戦争は通常の植民地争奪の域を出ないこと。第四に、英仏などが19世紀を中心に大々的に遂行した帝国主義政策には謝罪が要求されていないこと。第五に、既に戦後60年が経過していることがある。
 しかし私は、国家に対する謝罪と国民に対する謝罪は別であると考えている。また極東軍事裁判については大量の冤罪を生んだ勝者の裁きであり、文明の名を語る報復劇であったけれども、だからこそ日本人自らの手で歴史を裁きにのせることで、回復すべき名誉は回復し、闇に葬られた非人間性は暴かねばならない。英仏の植民地政策と日本のそれが決定的に違うのは、今後もお付き合いいただきたい隣人への迷惑となったことである。極端な話、ヨーロッパがアフリカ諸国にどれだけ憎まれようと困ることは何もない。支援の相手先、それだけのことであるから謝罪の必要性はない。隣人に対してはそうはいかない。ドイツの真摯な反省がフランスの信頼を勝ち得たような、そういう関係をつくることが周辺諸国だけではなく日本にとっても国益となるのだ。
 今年は戦後60年。戦後すぐ生まれの人が勤労者であることを終え、兵士として戦った人が平均寿命にさしかかる時期だ。しかし、ヨハネパウロ2世が冷戦終結後に天動説の誤りを認め、ガリレオ・ガリレイの破門を解いたように、歴史を省みるに遅すぎることはない。この時期だからこそできる戦争への反省の仕方を国民一人一人が考えていかなければならない。