十三湖と十二館

yosuke0araki2005-02-27

 檜山郡上ノ国町は北海道の歴史の発祥の地であるという。檜山支庁の職員としては残念ではあるけれど、これは正しくはない。北海道の歴史が松前藩に始まり、松前藩の歴史が上ノ国町に始まるのだけれども、この二つの事実は連動してはいないのである。このことは、津軽半島の付け根にある十三湖という場所と結びつけて考える必要がある。
 十三湖の繁栄した時代は、中国の元朝と重なる。平清盛が前代の宋朝と福原(神戸)で貿易し、足利義満が後代の明朝と堺や博多で貿易したのとは対照的に、元朝と日本は公式には貿易関係になかった。しかし、そのことはむしろ中央政府の威光の及ばない津軽において、大々的に異国と交わりを結ぶ素地となったのである。さらにこの時代がシルクロードが変遷していく過渡期であったことも見逃せない。古代からのメインルートであったオアシスの道は、チンギス汗のサマルカンド破壊にも見られるように、モンゴルの襲来で大きなダメージを受けた。これに代わったのがタタールの平和によって安定した通行が可能になったステップの道である。この状況は日明貿易の当事者である永楽帝鄭和を南海に派遣して海の道を切り開くまで続いたのであるが、ステップの道の東の端が沿海州であることから対岸の津軽半島が俄かに貿易上の地理的優位を得たのである。
 十三湖の主は安藤氏であった。前九年の役において源頼義に破れた安部氏、後三年の役において源義家に破れた清原氏源義経をかくまって源頼朝に征伐された藤原氏につながる家系だという。安藤氏にとっては、十三湖の交易こそが自らの繁栄と軌を一にするものであり、十三湖を基点に日本海沿岸及び津軽海峡の安全な航行を確保する必要に迫られていた。そのため東は志苔館(函館空港付近)から西は花沢館(上ノ国町)まで松前半島の沿岸に十二の館を整備した。海上交通網の確保のために蝦夷地に拠点を持ったのであり、津軽領有の延長線上に蝦夷地への進出があったのではないことに留意すれば、日本海と海峡が交わる松前の付近に大館(松前公園付近)を始め4つの館が集中していることに納得できる。
 元から明へ、鎌倉時代から室町時代への転換の中で十三湖は衰退していく。そして安藤氏も南部氏によって蝦夷地に追われる。このとき安藤氏が大館ではなく茂別館(上磯町茂辺地)を本拠地としたのは、南部氏の渡海を恐れてのことだったろう。しかし勢力を立て直した安藤政季は十三湖回復のため蝦夷地を去る。下国家政に茂別館、下国定季に大館、蠣崎季繁に花沢館を守らせることとした。
 安藤氏は十三湖を回復できず久保田(秋田市)に転じ、関ヶ原の後は福島県三春町に移封され華族秋田氏として生き延びることになる。一方の蝦夷地では安藤政季の出征より間もなく思わぬところで戦いが始まる。志苔での取引をめぐるトラブルからアイヌの酋長のコシャマインが兵を挙げたのだ。コシャマインの勢いは強く十二館のうち茂別館と花沢館を除く十館がことごとく陥落したという。この和人の窮地を救ったのが花沢館にいた蠣崎季繁の部下だった武田信広の活躍である。この功績により武田信広は女婿として蠣崎氏を継ぎ、その後には大館に入った。この武田信広を始祖とする一族こそが維新まで蝦夷地経営の中心的な役割を担った松前氏となるのだ。

 郷土史というのは、ややもすればオラが一番という単なるお国自慢に陥り易い。世界史の中で、日本史の中での位置付けを常に問いかけながら郷土史を見守っていく、そうすることによってのみ歴史を生かした観光などを誘致することが可能になる。