六大古都

yosuke0araki2005-03-14

 中国の歴史には小さい頃から興味があったけれども、六大古都という言葉は最近になって知った。旅行主任の受験勉強をしているときのことだった。
 この古都の中では抗州が見劣りする。南宋という地方政権の都になったに過ぎない抗州は、蜀に群雄が割拠する度に都とされた成都などと横並びである。風光明媚な抗州は蘇州と組み合わせた観光コ−スとしてこそ大きな意味を持つのだろう。それから、開封北宋とそれに先立つ五代の都でしかない。宋というのは科挙制による文治が充実した時代であるが、異民族に圧迫されてあまり印象は強くない。宋を間に挟んでそれ以前が長安と洛陽の時代、それ以後が北京と南京の時代だと言うことができる。
 周は幽王が犬戎に討たれた後、鎬京(長安)から洛邑(洛陽)に遷都した。鎬京の跡地である咸陽を拠点に春秋・戦国の混乱を収拾したのは秦の始皇帝である。秦に続いて漢の高祖は長安に都したが(前漢)、王莽の纂奪の後、光武帝は洛陽に遷都した(後漢)。三国から南北朝までの時代を経て隋と唐も長安に都した。しかし黄巣の乱の後、唐は洛陽に遷都して間もなく滅亡する。このように周・漢・唐といういずれも中国を代表する王朝が最盛期を長安で迎え、弱体化して洛陽に遷都しているのは興味深い。おそらくそれには両都と中原との距離が関係あるだろうというのは推測できるが、それ以上のことは分からない。
 長安と洛陽を両輪に歴史が展開していた時代、北京と南京はそれぞれ中華文明の北端と南端であった。戦国七雄・燕の故地であった北京は、五代の混乱に乗じて遼が長城以南の十六州を取ると、北宋に対する前線の副都となった。そして華北を得て南宋と対峙した金、中国を統一した元のいずれにおいても首都となった。他方、春秋十二侯・呉の故地であった南京は、三国志の呉において都となり以後、東晋など南朝の都であった。明の洪武帝は元を北へ追放すると南京を都とするが、子の永楽帝は北京へ遷都する。以後、清朝は北京に、国民党の中華民国は南京に、共産党中華人民共和国は北京に都して今日に至っている。この過程で、中華思想が受け継がれている南京と異民族との交流融合の道を歩んだ北京の都市としての性格が形成された。
 歴史の荷車は人間によって動かされているのであり、こういう風に都市に注目するのは退屈なことかもしれない。しかし、人間中心の歴史観を確立した司馬遷ですら本紀と列伝との間に世家のジャンルを設けたのは注目に値する。青年時代を放浪の旅に費やす中で司馬遷は、世家を執筆して地域の歴史を紐解こうとしたのだろう。今、上海・香港・天津といった沿海地域の経済成長に目を奪われがちではあるけれども、古都の盛衰を大掴みにすることにより、より中国の旅は面白くなるだろうし、より良くこの国を知ることになる。