六条花の院

yosuke0araki2005-04-02

 最近、角川文庫「ピノッキオの冒険」を読んだ。欧米の文学に触れるのは、中学生のときに岩波文庫モンテクリスト伯」以来だから、実に十数年振りということになる。たまには、見知らぬ土地を旅するように、見知らぬ感覚の文学の世界を彷徨うのも悪くはない。
 これだけ長く、外国文学から遠ざかったのは翻訳による文章の変質を恐れたからだ。つまり文学作品の魅力は、ストーリーと文章の両者であるけれども、文章は作者よりむしろ訳者に依存することになる。事実は小説よりも奇なりということだが、歴史に大きな関心を寄せる私は文学にストーリーの魅力を求めてこなかった。だから作者の文章力に信頼を置ける日本文学に偏ってしまったのだ。「ピノッキオの冒険」の訳者は大岡玲氏。実は私の拙い読書力では、日本の古典にも現代語訳が必要になることが多いのだが、こちらの方は信頼のおける訳者が多くいたので、この深遠なる世界から遠ざからずに済むことができた。とりわけ最高峰ともいうべき源氏物語与謝野晶子谷崎潤一郎の完訳があり、田辺聖子の意訳がある。源氏物語に近づくことは、そこにいる人間に近づくということであり、人生にとってそれが有意義なものであろうことを読みながらにして実感することでもある。
 京都で浪人中の私は、宇治十帖が好きでたまらなかった。源氏の世代から引き継いだ運命の琴糸が青春群像を鮮やかに彩るこの物語は繊細かつ悲壮であり、心に強く響いていた。放課後よく宇治まで行って、浮舟の心がただよった川のほとりで日が暮れるまで読みふけったものだった。しかし最近になって感じるのは、源氏の人間としての大きさ。源氏の存在が年を経るごとに私の中で大きくなってきた。
 光源氏ロリコンでありマザコンであるとされている。しかし18歳だった源氏が10歳だった紫の上を連れて帰ったことは、10歳から30代後半に亡くなるまで紫の上の女性としての魅力を年齢を追って描いていくという仕組みの上でやむをえないものであった。亡き母に似た人を求めての遍歴も、メーテルリンクの青い鳥と同様の構成で、答えはごく身近な紫の上との恋にあった。このような物語の大きな枠組みに気づかないまま、物語を中傷する人がいかに多いことだろうか。
 源氏の邸宅である六条花の院は多くの人が住んでいた。春の御殿には源氏と紫の上がいた。夏の御殿には源氏の嫡男の夕霧と、その母親がわりとして性格の大らかな花散里の君がいた。秋の御殿には六条御息所の娘で、気品高く物悲しい雰囲気がある秋好中宮がいた。冬の御殿には明石中宮の実母であり知的な歌詠みでもある明石の姫君がいた。しかし考えてみれば、花の院の住人が多様なキャラであるのにルックスを売りにしている人がだれもいないというのは妙である。物語においてルックスナンバーワンは玉蔓。しかし玉蔓は華々しいデビューにも関わらず、冷泉帝とも源氏とも蛍の宮とも縁がなく、上品さとは程遠い髭黒の大将と結ばれて所帯じみた主婦として落ち着くことになる。こういうところに、サンプル化しながら女性の魅力を引き出してきた作者紫式部が、人間としてどういうところに魅力を感じているかを窺うことができる。こういう読み方は、藤崎詩織を主人公にときめきメモリアルにはまるのと同レベルかもしれない。しかし千年の時間にも関わらず、今だに惹きつけられる人が多く、ついギャルゲー的な感情移入をしてしまう原因は、私自身よりむしろ源氏物語の大きさに求めることができる。