総合的な学習の時間

yosuke0araki2005-04-23

 生きる力を育むという大テーマのもとでの学習指導要領が実施されたのはH14年度からである。しかし、文部科学省は脱ゆとり教育への舵を切っている。猫の目行政と揶揄されるところではあるけれども、「ゆとり」が中央教育審議会で提言されたのは30年近く前のこと。目まぐるしく方針転換しているというのは当たらない。脱ゆとり教育が遅すぎたということはいえるだろうけど。
 方針転換が遅れた原因の多くは行政や教育の側にある。しかし、ゆとりという漠然とした言葉の意味を抽象的にしか捉えることができず、具体的・建設的な批判をしてこなかったメディアや父母の側にも責任がないとはいえない。例えば、ゆとり教育の無意味さの象徴として捉えられることの多かった「円周率=約3」。円周率を「3」や「3.14」のような有理数としてではなく文字として把握するという意味で「約3」は「Π」と同水準の内容を含んでいるといえるだろう。こういう指導要領の中身に踏み込んで、多様な立場から検討していくことが必要であった。
 さて数年前「ゆとり」や「生きる力」と並んで流行っていた言葉に「総合」というものがある。慶應義塾大学総合政策学部が新設された頃、各地の高校が総合学科に再編された。しかし、もともと普通科は総合的な教養を身につけるコースであり、高校総合学科は独自の特色を生かしきれていない。また、大学にもリーガルマインドをもって社会全体に目を向ける法学部の存在があり、これが実質的に総合学部としての役割を果たしていた。このような現状で、名前の響きの良さとは対照的に総合的な教育を試みる余地は小さい。
 ところで小・中学校さらには高校で総合的な学習の時間が必須教科とされた。現状で良しとはしないが、私はこちらの方には大きな可能性を見ることができる。なぜなら小・中学生にとって総合とは教科の再編のことであり、5教科の枠を越えた学習が可能になる。なぜ勉強するのか?勉強したことはどんな役に立つのか?この教科の中で、そういうことを考えることができれば、5教科の学習にも大きな力となる。
 例えば、外国に姉妹都市のある都市の学校であれば、テーマをその国に絞って社会・音楽・美術・家庭・体育などの先生が連動して授業をできるだろう。英語のHPは、生徒にその国について調べさせるときの重要なツールとなる。例えば、行政機関の隣に立地しているような学校であれば、その行政機関に協力を求めることができるだろう。5年前に私が教育実習をした中学校では、総合的な学習の時間に職業について考えさせており、それはそれで面白かったけれども実社会の組織的なサポートによって、より具体的なイメージを生徒に伝えることができる。
 しかし教師の側に総合的な学習を困難にする要因がある。つまり教師は、クラスにいるとき絶対的な存在であり、またその教科の専門家でもある。教科の枠にとらわれない知的な生徒を育てる前に、教科の枠にとらわれない知的な教師を育てる必要があるのだ。そのためにはグループ指導などを効果的に用いて教師どうしが切磋琢磨することを日常化しなければならない。そうすることで教師は他の教科にも関心を持ち、教師どうしのネットワークにより総合的な学びの場を提供できるようになる。
 教育は国家百年の大計である。転換しつつあるゆとり教育が間違えだったとしても、生きるための総合力が人間にとって必要であることに変わりはなく、国民の一人一人がそのために何が必要なのかを考えていかなければならない。