地方交付税交付金

yosuke0araki2005-06-04

 国庫支出金と地方交付税交付金の削減を、国から地方への税源委譲と同時並行的に推進しようというのが三位一体改革である。国が地方を財政的に制御するのをやめて、地方が自主財源をもって自主的に行政運営をすべきだという議論だ。
 しかし、私には地方交付税交付金を削減する根拠が全く見えてこない。国庫支出金と異なり地方交付税交付金は使途を国から管理される性質のものではないから、これがために自治が妨げられるということはありえないのだ。たしかに総務省補助金化しているという批判はあるけれども、それは制度そのものよりも、むしろその運用に向けられるべきである。
 現行では、基準財政需要額と基準財政収入額の差を地方交付税交付金としている。問題なのは基準財政需要額の算定方式である。各行政分野ごとの需要額を世帯数や職員数などを基数に積み上げているのだが、その方程式は主管官庁の思惑が絡んだツギハギだらけのものであり、とても実態に即しているとはいえない。例えばの話、総額の二分してそれぞれ人口割合と面積割合に応じて配分するようなやり方でも、著しく不合理な配分になるとは思われない。配分方法さえ透明であれば、国の関与の手段に利用されることはない。 
 それでは何故、地方交付税交付金は必要なのだろうか。言い換えるならば、首都圏などの豊かな地域の税収を北海道など僻地の住民のために配分しなければならないのだろうか。近視眼的な自由主義の見地からは、受益と負担が完全に分断されるこのようなシステムはといてい容認できるものではない。
 しかし時間的な広がりをもって考えると全く別の結論が見える。つまり明治維新以来、わが国では地租など農村からの税収を東京及び太平洋ベルトに重点的に投資して国づくりをしてきた。およそ百年にも及ぶこの歴史を考慮するならば、今日たまたま都市から農村への再配分がなされているからといっても不当ではないだろう。また個人の歴史として見ても、経済的な生産性の低い高校卒業前や定年後といった時期を農村で過ごし、生産性の高い時期を勤労者として都市で過ごす人は多いだろう。そのライフスタイルを考慮するならば、地方の希少な働き手にばかり若年者や高齢者を支えさせることこそ不当である。
 これに加えて私は、中央への冨の集中というベクトルは主権国家に内在するものであり、日本が主権国家である以上は、このベクトルと釣り合いをとるための交付金は不可欠であるということを指摘したい。例えば、仮に北海道がDuoという独自の通貨を持ったとする。当初は100円=100Duoだったとしても、北海道経済は脆弱だから円高Duo安で推移することになる。もし100円=150Duoにでもなれば、北海道では本州の2割増くらいのコストを要する産業であっても、移出競争力を有するようになる。現在の円という単一の枠組みは、このような為替相場による産業の弾力性を地方から奪っているのである。通貨の他にも主権の故の制約は多く存在しており、これを補填するための支出は国にとって義務的経費である。
 故に、軽々しく地方交付税交付金は不要だというべきではない。私は自治体が独立をすべきだとまでは思わないけど、不要論を唱える人にはその覚悟を持ってほしい。