二つの戦争の帰結

yosuke0araki2005-06-11

 勧善懲悪の図式から、太平洋戦争において日本は負けるべくして負けたと説かれることが多い。真珠湾への攻撃も、圧倒的な国力を有するアメリカには折り込み済であり、日本はその手のうちに踊らされていたにすぎないというのである。日本の軍部でも、海軍は現状をある程度は認識していたのに対して、陸軍は破滅的な戦局においても本土決戦・一億玉砕を唱えて人命を弄んだようにも語られることが多い。
 しかし、アメリカが攻撃を予知しながらも、相手を甘く見て痛い目にあった事実を、われわれは9・11において知っている。真珠湾からしばらくはアメリカが一隻の戦艦も太平洋に配備できなかったということを考えると、この攻撃の結果は想定外であったという他はない。それに国力は、必ずしも勝敗の帰趨を決するものではない。当時の日本よりもはるかに小国であったベトナムは30年後、この大国に勝利しているのだ。
 陸軍を悪・海軍を善とする図式は終戦直後から見受けられた。極東軍事裁判A級戦犯として絞首刑になったのは、将軍は6人なのに対して提督はゼロだった。しかし偶発的に日本が盧溝橋事件に遭遇した後、アメリカなどの利権が集中する華中・華南への侵攻を主張したのはむしろ海軍であった。当時の海相は米内光政であり、山本五十六や井上成美などもその意思決定に深く関与していた。
 本土決戦にあたって陸軍は、戦局の悪化は海軍のせいであり、陸軍はまだ負けていないと主張をした。島嶼戦においては制空権・制海権を失って玉砕したのであり、兵站戦の短い本土では条件が異なるというその主張はもっともである。
 私は、勧善懲悪の歴史観に違和感を覚える一方で、自称「右翼」の方々が、この戦争は勝てた戦争だったと悔しがるのは論外だとも感じている。戦争が人命を羽毛のように軽んじていた事実は歴然としており、平和な世に生きる幸運に恵まれたわれわれの世代には、言葉遊びのように戦争を語る資格はない。それに何よりも、戦前の社会システムが継続していたならば、高度経済成長もそれ以後の豊かな生活も、われわれは享受することができなかったと考えるからだ。

 緒戦における陸軍の連戦連勝は主に南方軍によるものであったが、その戦局の展開は40年前の日露戦争における満州軍を想起させられる。今村均中将の第16軍は数倍のオランダ軍をわずかな犠牲で屈伏させたが、これは黒木為禎大将の鴨緑江渡河に擬せられる。山下奉文中将の第25軍は銀輪部隊をもって怒濤のごとくシンガポ−ルを攻略したけれども、これは奥保鞏大将の南山攻略に擬せられる。本間雅晴中将の第14軍はコレヒド−ル・バタ−ンに手間取ったけれども、これは乃木希典大将の旅順での苦戦に擬せられる。飯田祥次郎中将の第15軍が戦線の間隙を埋めるという地味だけれども重要な任務を着実にこなしたのは野津道貫大将と同様である。南方軍の寺内寿一司令官や塚田攻参謀長は、大山・児玉の両大将に及ぶべくもないとしても、当代の名将というべき逸材が多くハレの戦線に起用された。
 しかし結果として、日本は日露戦争で勝ち太平洋戦争で負けた。私は、決戦場を得られたかどうかが両者の明暗を分けたと考えている。
 つまり、日露戦争の各軍は眼前の課題を達成した後、ともに奉天会戦に臨んだ。その主力同士の対決を制したからこそ、戦争を長期化させなかったのである。これに対して、太平洋戦争においてはインパ−ル作戦のような攻勢に出て大損害を被った戦線もあったけれども、アメリカの主攻略ル−トであるミクロネシアにはわずかに第31軍を配備しただけであった。それも軍司令部は戦略的な重要性を持たないグアムに置かれ、サイパン硫黄島といった本土の安全に直結する重要拠点は一個師団での玉砕を余儀なくされた。主戦場を見失い、みすみす前線を見殺しにしたのは、台湾の第10方面軍と沖縄の第32軍の関係においても同様である。
 ミッドウエ−からアメリカが本格的な攻勢に出るまで2年近くの時間が日本には与えられていた。この間に侵攻ル−トを見極めて要塞や備蓄などの準備を万全にすれば、それこそ一人で十人にあたる戦いができたかもしれない。東条英樹首相兼陸相参謀総長を、嶋田繁太郎海相軍令部総長を兼ねるシステムも総力戦には有効だったはずである。それでも、主戦場を見誤り決戦の機会を逸した軍部は結果として批判されても仕方ない。本土決戦の意義は分かるものの、このような陸軍に任せてはおけないというのが昭和天皇を初めとした知識人の一般的な認識だったろう。昭和の陸軍に最も足りなかったのは、対馬海峡を決戦の場だと確信してバルチック艦隊を待ち構えていた東郷平八郎長官の果断さであった。

 それから60年。平和で充実した時間が流れた。冷戦時代には、陸上自衛隊において音威子府決戦の可能性が検討され、13個師団中の4個師団が北海道に配備されているけれども、北方有事となれば重要なのはむしろ北陸だろう。伝家の宝刀であっても研ぐことは怠らないでほしい。