第133回 芥川賞選評

yosuke0araki2005-07-13

 最近、私の印象に大きく残った小説は、鹿島田真希「6000度の愛」(新潮)である。夫と子供との平凡で幸せな家庭を持ちながらアルコ−ル中毒で自殺した兄の陰を引き摺る女が、混血とアトピ−の劣等感を抱える青年と長崎で出会う。しかし、ここで提示されているのは女と青年の関係性ではなく、女という片側だけの複雑な感情であった。1人称と3人称を交互に積み重ねるという技法により、女の感情はさらに深みのあるものとなる。この小説の特徴を一言で表現するならば、それは「匿名性」ということになるだろう。タイトルの6000度が原爆直下の温度であるような具体性は、長崎という場所には示されているけれども、女も青年も兄も、人物は全てモノト−ンな存在として読者の前に登場する。「女」が出会うのは特定のこの「青年」である必要性はないのだ。最近の小説の多くは、自分に限りなく近い主人公の1人称で具体的な描写を展開し、その中で読者と共鳴できる心の動きを模索しようとする。こういう最大公約数を求めるようなやり方に対し、この作品は匿名の誰かの多様な感情を表現する、いわば最小公倍数を求めるような作品である。
 さて、今回の芥川賞の候補作は7編。「6000度の愛」は候補作にはならなかった。この作品が既に、文芸春秋社芥川賞講談社野間文芸新人賞と同格である新潮社の三島由紀夫賞を受賞しているのが大きな理由だろう。しかし現実として芥川賞受賞者は、野間新人賞や三島賞の受賞者とは比較にはならないほど、その後の作家人生において優遇される。だからこそ、「6000度の愛」を超える作品に今回の芥川賞を受賞してほしいのではあるが。 
 松井雪子「恋蜘蛛」(文学界)は、年下のボ−イフレンドに捨てられる話であるのにあっけらかんとしていて好感が持てる。この作品が題材としている夢の刺繍が読者のイメ−ジをも赤や黄に彩っているのだろう。私は、作者の前作について場面ごとの描写は明快なのに全体としてのテンポがないということを述べた。しかし、この作品においては失恋の予感を読者に提示しながら、恋の糸をテンポよく織りあげており、ついつい引き込まれてしまう。
 楠見朋彦「小鳥の母」(文学界)は、土砂崩れに巻き込まれて最愛の母を失う話。大きな事件が起こっているのに、その臨場感がほとんど伝わらない。文学界誌上では「恋蜘蛛」と並んで掲載されていたが印象は薄かった。兄嫁や交際相手など人物が丁寧に描かれているだけに残念である。
 中村文則「土の中の子供」(新潮)は、虐待の末に生き埋めにされた幼児体験を持つ男の屈折した心理を描く。暴力が氾濫する作品というのは数多くあるし、個人的にはあまり好きではないのだが、この作品における暴力においては迫力よりも哀しみが先だっている。その哀しみが子供の墓参りをしようという心境に昇華したところに何かしらの救いを見いだしたい。
 樋口直哉「さよならアメリカ」は群像新人賞受賞作品。紙袋を被って生活する男を題材にしたこの話には、安部公房箱男」や阿部和重アメリカの夜」のパロディ−であることについて、創造性を競う選考過程において賛否両論があることだろう。しかし一見奇抜な袋男も、袋を仮面に置き換えることで普遍性を有する設定になる。袋女との関係にも、異性に対して持ちうる複雑な感情が含まれていて読み応えがある。惜しむらくは殺人と死刑というエンディング。窃盗を生業とする袋男だからこそ、より過激な事件が必要とされたのかもしれないが蛇足であるという他はない。
 栗田有起「マルコの夢」(すばる)は、食材としてキノコを探すうちに、家族とキノコの関り合いを知るという話。前作のホテルがとても魅力的な存在だったのに対して、この作品のキノコは安っぽく感じられる。それはホテルが眠りについて真摯な問いかけを発していたのに、キノコからは問題意識が見えにくかったからだろう。せっかくフランスの三ツ星レストランという設定したのだから、フランスという舞台装置を活かすような展開も見たかった。
 中島たい子「この人と結婚するかも」(すばる)は、異性を見る度にタイトルのように想う美術館職員の話。恋愛というと、成功するにしろ失敗するにしろある程度まで形になった、あるいは自分の心の中では確立したものをイメ−ジする。しかし、現実には恋愛なのかそうではないのかよく分からないような中途半端な感情である場合の方が多いかもしれない。作者はそこをうまく突いており、単なる焦燥感が先だった前作よりも単純なようで示唆に富んでいる。
 伊藤たかみ無花果カレ−ライス」(文芸)は、母と元妻について、自分が狂わせたのではないかと考えていくという話。示唆に富んだ視点であり、構想にも隙がないのだけれど、そのことがかえって小説に読者が入り込む余地を小さくしている。私としては、久しぶりに再会した悪友に興味をそそられるし、彼のサブい言動で読者をもう少しひかせることができればよかったと思う。 
 以上の作品について、本命は松井;対抗は樋口だろうと考えている。前者はカラフルで作品の完成度は高く、後者は欠陥を持ちながらも力強くテ−マ性が伝わる。選考会は明日の夕方である。