日本語の構造

yosuke0araki2005-07-26

 福原愛が流暢な中国語でインタビュ−に受け答えしているのを見ると、とても感心してしまう。天才卓球少女として、彼女がデヴュ−したのはまだ小学校に上がる前のこと。その時すでに英語や中国語の勉強を始めていた私は未だこれらの言葉で日常の用を足すことすらできないでいる。
 漢字という共通の文字を使うために錯覚に陥りやすいけれども、日本語や韓国語と中国語の間には文法構造上の非常に大きな隔たりがある。われわれの言葉は文法的には中国語よりもむしろトルコ語に近いという。そのような中国語を表記する漢字を日本語が取り込んだときのウエスタンインパクトは察するに余りある。漢字の導入は倭の五王の頃だとされている。応神・仁徳と継体以後の狭間にあたるこの時代、高句麗と対峙する倭は晋・宋・斉・梁・陳と続く中国南朝宗主国としていた。南朝由来の漢字第一波は呉音と呼ばれている。その後、中国を統一した北朝系の隋と唐に対して遣使したことで日本に伝来したのが第二波の唐音。中原の政情は、南北両系統の漢語を和語に持ち込むこととなった。
 この複雑な状況は、朝鮮半島においても同様であった。漢字伝来以前には九州地方とほとんど同じ言葉が話されていたこの半島では、百済高句麗が南北両朝文化の流入の受け皿となったため、漢字のインパクトは日本以上であったろう。しかし、骨品制や両班制により漢語の世界と韓語の世界は明確に峻別されたし、李朝世宗大王によるハングルは母音と子音により構成される合理的な記号であったため、漢字と住み分けすることができた。これに対して、万葉仮名を経てひらがな・カタカナが成立する過程は、自然かつ潤滑であり平安遷都からしばらくで土佐日記のようなかな文学が誕生した。これは所与のものとするには惜しいわれわれの先人の偉業である。
 私は外国語に精通しているというわけではないけれど、日本語の大きな特徴はSV構造からの自由である。主語(S)について見ると古典的には省略するのが一般的である。源氏物語には多数の人物が登場するけれども、彼らの名前は後世の人がつけたのであり、原典中には名前がない。名前などなくても事足りるのが日本語の特色なのである。例えばスペイン語の場合、"Yo soy Yosuke Araki.(I am Yosuke Araki.)"という文では主語Yoを省略することが多いが、それは動詞が人称により活用することで明かなためである。動詞(V)の相対的な地位の低さも日本語の特色である。日本語の述語には動詞だけではなく形容詞や形容動詞も含まれるのであり、これらは当然に活用する。私は少なくとも英語やフランス語において、形容詞や形容動詞が活用するという例を知らない。

 主語のない世界では、個人よりも関係性そのものが重要になる。形容詞や形容動詞は何らかの主体の働きによらないものであるから、これらは関係を表現するのに有効な語彙である。このように見れば、日本語文法は初めから構造主義的な或いは経験論的な表現に向いた言語であると言える。日本文学には、ぜひこの日本語の特性を活かしたものであってほしい。個人の内面を精緻に描写するだけの私小説の潮流から早く卒業してほしい。そういう意味で、今はやりの韓国ドラマに共通する構造の堅固さには大いに学ばなければならない。