その時歴史が動いた

yosuke0araki2005-08-13

 サッカ−のテレビ中継を見ていて感じるのは、ゴ−ルを決めた選手ばかりが評価されているのではないかということである。中学の同窓生の柳沢敦がアジア予選でシュートを決めたのはもちろんうれしかったけど。11人でプレ−するのだから、好アシストもあればファインプレ−もあることだろう。しかし、どんなこぼれ球のボテボテでも得点を決めた瞬間は、それまでの全てを集約してしまう。他方で私は、監督の采配だとか主将の人望だとかグランド外の要素にゲ−ムの勝敗を理由付けることにも違和感を覚える。もっともなのだけれど、その論理が前に出るならば試合を見る必要はなくなるからだ。
 歴史の教科書にも、こういう記述がいかにも多い。ひとつの物語にもなりえる時代を、その終焉を象徴する事件の年号のみと等号で結び、偶発的な成り行きにも構造的な必然性を見いだそうとする。そうではなく、小説よりも奇なるもの、物語として歴史を楽しみたい。そのためには歴史が動いたその時、いわばハイライトがどの位置にあるのかを考えてみるのがおもしろいと私は思う。
 源平の合戦において、それは倶利伽羅峠であろう。確かに後半戦においては義経という軍事の天才が源氏に登場したけれども、既に一ノ谷の前段階において源氏の力は平家を上回っていた。義仲の京での失敗にも関わらずである。源氏の戦場での寡勢は宇治川からの拙速の行軍に帰せられるに過ぎない。それまで東国と北国に割拠していただけの源氏に京を明け渡し、瀬戸内での漂流生活を強いられることになったのは、平家の倶利伽羅での敗北の故であった。
 南北朝において、それは多田羅浜であろう。奥州の北畠氏に京を追われた足利尊氏が、九州の菊地氏を破ったのが多田羅浜。この戦いで再起した尊氏の大軍には湊川楠木正成もなす術はなかった。直義と高師直による内輪もめのために戦乱は60年に及んだけれども、これ以来ついに北朝優位は動かなかった。
 戦国から三傑による統一の時代に至る分岐点は何だろうか。私は、数ある名勝負を差し置いて信長の稲葉山城攻略こそ統一への舵を切る瞬間だったと考えている。意外なようだが、信長は桶狭間から本能寺までの天下取り22年間のうちの8年間も美濃一国を攻略するために費やしている。濃尾平野は有数の穀倉地帯であり、両州を平定することによりはじめて信長は今川義元の旧領を石高で上回ったのだ。北伊勢の調略も大方上手くいったのもこの時期であるし、東の徳川や北の浅井との同盟により京はごく近くした。よく上洛要請を拒んだ朝倉義景と信長の先見性が対比されてしまうけれど、その前段階において勝負はあったというべきだろう。
 このように見るならば、維新の前後にては、長州が攘夷から開国に転じた下関砲台事件もしくは徳川慶喜を新政権の枠組みから外した王政復古の大号令こそがハイライトということになろう。しかし当初、薩長が攘夷を主張したのは中央政権でないが故に政策判断の材料となる情報に欠けていただけであり、冷静に分析するなら開国以外の選択肢はありえなかった。幕藩体制から藩閥政治への移行も、それだけではコップの中の争いであって世の中を代えるものではなかった。
 なぜ日本は他のアジア諸国とは異なる近代化の道を歩むことができたのか、私はそういう視点に立って維新のハイライトを岩倉使節団だと考えている。当時の政府の中枢が欧米の姿を伝聞ではなく直に見たことは、彼らが日本の青写真を描くために必須のことだったろう。青写真を共有できた人とできなかった人、そこに明治6年の政変があった。
 ハイライトは後から振り返って、そこにあったと気づくものであるから現代を紐解くことはできない。しかしこの事件が大きく歴史を変えているかもしれないと思うと、新聞誌上の様々も俄然おもしろくなる。