有島武郎君

yosuke0araki2005-08-27

 有島武郎という人は、私の知るだけでも3度、人生を投げ出している。
 第一には官僚としての道。有島武郎は、薩摩藩士から大蔵省の役人となった有島武の子であり、端正な容貌と明晰な頭脳を評価され大正天皇の御学友となっていた。レ−ルに乗って帝国大学から高等文官試験を受験すれば、役人として功なる可能性は高かったろう。それを投げ出して彼は何故か札幌農学校に入学した。
 第二には学者としての道。有島武郎は、新渡部稲造教授の下で農政学を学んでおり、その研究の後継者と目されていた。卒業論文は「鎌倉初代の農政」。また、内村艦三教授からキリスト教を学んでおり、その信仰の後継者と目されていた。しかし彼は、研究も信仰も投げ出して助教授の職を去る。
 第三には文士としての道。デモクラティックな大正の雰囲気の中で彼は流行作家となる。一時期、尋常小学校の教科書で取り上げられるのは、夏目漱石森鴎外を凌ぎ彼の作品が最も多かったという。しかし、その人気の絶頂にあって彼は入水自殺した。心中の相手は夫のある人だったそうだ。
 私のような凡人には三つの道のどれも、とても手に入りそうもないものであり、羨ましい限りだ。しかし第一の選択から第二の選択に至る彼の札幌時代は、ちょうど百年後輩にあたる私と重なるところが大きくて身近に感じられる。有島武郎君の学んだ農政学研究室は現在、比較農政学研究室となっており、私は新渡部先生から数えて10代目の出村克彦教授と山本康貴助教授に師事した。
 北海道大学の校歌は有島武郎君の作歌した「永遠の幸」。校歌には有名人に作を依頼するのと在校生から募集するのの二類型があり、それぞれに長短を有するのだが、北海道大学の場合は在校生が作歌して後に有名人になるという幸運に恵まれた。助教授時代の彼は、舎監として恵迪寮生と起居を共にしたけれども、そのおり毎年寮歌を作ることにしようと発案し、その伝統は明治40年度以来、今日まで受け継がれている。最も有名なのは、明治45年度寮歌「都ぞ弥生」。ちなみに平成11年度寮歌は私、荒木洋祐の作歌である。彼は寮歌集の序文にも寄稿しているけれども、そこには「寮生諸兄は自分を教官としてよりもむしろ、歳の離れた兄貴分として遇してくれた」とある。不躾ではあるけれども、私も彼に対してはそういう気持ちをもっている。
 有島武郎君の死については、いろいろな論議がなされている。しかし心中という形で飾ったものの、その一番の動機は有島農場の挫折にあったと私は考えている。ニセコの大地主でもあった彼は当時、農場を小作人に開放してそこに理想郷を作ろうとした。しかし、用水を引くために農林省から交付された補助金で、用水を温める目的でため池を作ったために、国費の不正使用ということで逮捕が迫っていた。そのことは官僚組織の杓子定規な法規運用に対する失望を彼に与えた。彼が学んだ農政学も、彼の文学世界も、この政治的な状況を打開するのには全く役に立たなかった。彼にとってその失望感は、その三つの世界に夢を見た彼のそれまでの人生に対する失望感だったのだろう。もはや彼には新しい夢を見る余裕がなかった。才能のある人だけに、そのことによる喪失感は大きく、そのために死を選んだのだろう。

 しかし私はやはり、そういう苦悩がにじみでている彼の文学よりも、北海道大学で語り継がれる快活な彼が好きだ。札幌への途上に、ニセコから岩内を遙に見やると、無性に彼の面影を追いたくなり、数時間後には大学キャンパスに黄昏てしまう。