衣川以後の義経

yosuke0araki2005-11-12

 私の勤務する檜山支庁から徒歩5分のところに江差町文化会館というところがある。潮風のためにガラスが汚れているのが難だけれども、ここのラウンジから眺めることができる日本海は非常に美しい。最近では、昼休みに職場を抜けだし、ここでゆっくりするのが日課となっている。海を見ながら思うことは日々とめどないけれども、その中で最たるは、八百十数年前に源義経日本海を渡ってこの江差に上陸したのかどうかということ謎である。伝説によれば、津軽半島の北端に位置する三厩で天馬を得た義経が、これに乗って江差の鴎島に上陸したというのだ。
 当然のことながら一笑に付す人が多い。義経は衣川で藤原泰衛に打たれて、首は鎌倉に送られたのだ。その泰衛に所縁ある人々が奥州征伐の際に渡道したのを後世の人が義経であるという虚構にアレンジしたのだろう。判官贔ということもあるだろうけれど、和人の英雄を持ち出すことでアイヌ社会に進出する方便としたのだろう、と。
 しかし、吾妻鏡によれば頼朝が首実験に臨席しなかったという。高橋克彦氏が指摘するとおり、常識では考えられないこの頼朝の不作為は、それが義経の首ではなかったことをうかがわせる。さらに私が関心を持つのは義経伝説の地、特に十三湖三厩江差の占める中世の地理的な意義である。
 伝説によれば平泉を脱出した義経は一旦は三陸海岸へ出て、海路を北に八戸周辺に上陸し、そこから十三湖へ落ち延びたという。十三湖は、今ではシジミくらいしかないけれども、当時は平泉の外港であり秀衛の弟である秀栄が統治していた。私は、この十三湖こそがユ−ラシア大陸を横断する草原の道の終着点であったと考えている。義経が再起を図るなら、まず行くべき場所が十三湖であるのは自明であったし、奥州征伐が予想外のハイペ−スで進んだことで頼朝が真っ先に十三湖を押えたのも当然の成りゆきだった。
 十三湖の裏山を越えたところにある三厩は、津軽海峡を隔てて松前と対しており、もし義経が北海道へ渡ろうとするならば、江差ではなく松前に上陸するのが順当である。しかし、松前には義経伝説はあるものの単発もので他の地域の伝説との関連は薄く、その信憑性も低い。伝説を追うならばやはり江差上陸ということになるだろうが、それを裏づけるのが十二館の存在である。
 十二館というのは、東端は函館空港あたりの志濃里館、西端は上ノ国の花沢館として道南の沿岸にあった12の館のことである(ちなみに東から二つ目の箱館函館市の地名の由来となった)。義経の頃はまだ十二という数が確定したわけではなかったようだが、これらの館は十三湖沿海州を結ぶ交易路を補完する役割を持っていた。もし義経が、十三湖を保護者として期待できる政情ではなかったとしたら、松前の大館を主とするこれらの館も同様であり、だからこそ花沢館からわずか十キロほどしかないながらアイヌの勢力下にあった江差を上陸地として選んだのだろう。江差の人々は能登珠洲から移住してきたとされている。珠洲こそは義経の舅である平時忠流刑地だ。義経が時忠を通して江差の政情を把握できていた可能性も否定できない。
 このように考えると姫川伝説の謎も解ける。上ノ国江差と連なる沿岸の乙部、ここまで義経を追ってきた静御前は、義経がさらに北上したと知ると絶望して川に身を投げたというのだ。私は、その姫川を渡る度に石原さとみを思い浮かべてしまうのだけれど、その一方ではるばる鎌倉からここまで追ってきた静ならば、どうしてさらに追っていくことができなかったのか疑問を感じていた。しかし、江差近辺が和人とアイヌの境界になっていたことを前提にすれば静の気持ちも分からなくはない。静が絶望したのは、義経が物理的に北上したということではない。和人の世界から異民族の世界へと、義経が別の人生を踏み出したことを知ったからなのだ。
 その後の義経はどうなったか。ジンギス汗になったというのは現実的ではないし、前出の高橋氏が主張されるように北海道で寂しく死んでいったというのが妥当であろう。しかし、雪混じりの風で潮白く泡立つ江差の海を昼休みに眺めていると、義経がやはり大陸に渡ったと思えてならない。馬で海峡を渡った伝説の続きでは江差鴎島で船を用立てていることと、南部檜山以北における義経伝説が、奇岩をネタにアイヌの酋長の娘との恋愛を語るのみで、具体性に欠けるものばかりだということがその想像の材料である。いずれにせよ、わずか2年ほどしかなかった一ノ谷・屋島・壇之浦の栄光を、義経は永遠に取り戻すことができなかった。それでも大海に漕ぎ出してユ−ラシア大陸に渡るという冒険ロマンが、義経には似合っている。