A級戦犯

yosuke0araki2005-11-20

 首相の靖国参拝日中韓の国際問題となり、また違憲判決が出されるなど論議を呼んでいる。そして、この問題ではA級戦犯靖国神社に祀られていることが争点となっている。A級戦犯の問題は私にとっては、他人事には感じられない。終戦時の航空総軍司令官でありA級戦犯として巣鴨に拘留された河邊正三陸軍大将は私の曽祖父の兄にあたる。米ソ冷戦の開始により起訴は一度限りとなったが、二次三次と起訴があれば被告席に座ったのかもしれないのだ。
 20世紀になってから、戦敗国の旧首脳陣を戦争犯罪の名の下に裁くことが度々あった。しかし、そのほとんどが大量殺りくなど通常の殺人罪の延長線にある罪名によっており、平和に対する罪という漠然とした構成での裁判は東京裁判が事実上唯一のものである。仮に平和に対する罪という抽象的なものが裁きうるものだとしたら、それは国の方向を誤ったことについての自国民に対する罪と、加害者としての周辺諸国に対する罪に分けて論じるべきものである。そして、周辺国に対する責任は日本が国家として負わなければならないものであり、自国民への責任こそ国の指導者が負わなければならないものであると私は考えている。逆に、周辺国の報復感情が日本人の被害者意識を背景として全面に出たところにこの裁判の矛盾点があったのだろう。ドイツのように戦争責任を自ら反省する気風が日本で育たなかった原点には、この裁判のまずさがある。
 この裁判では7人が絞首刑となり16人が終身刑となった。ドイツにおけるニュルンベルグ裁判では12人が処刑されているが、そのほとんどがアウシュビッツでのユダヤ人大量虐殺など明確な殺人行為の責任をとらされたものであり、平和に対する罪というような不明確な政治責任をとらされたものではない。禁固刑の人数などを見ても日本の首脳は極めて重い責任をとらされたように思える。
 判決前の下馬評では東条英樹首相・陸相参謀総長嶋田繁太郎海相軍令部総長のみ絞首刑というものが多かったようだ。この二人に陸海軍の全責任をとらせることができると考えられていたのだろう。しかし、結果としては嶋田大将をはじめとした海軍の提督がA級戦犯として処刑されることはなかった。絞首刑に処せられたのは、東条大将をはじめとして木村兵太郎大将、武藤章中将、板垣征四郎大将、土肥原賢二大将、松井岩根大将という6将軍と外交官出身の広田弘毅元首相の7人であった。
 死刑か否かというのは、当事者にとっては一大事であるにも関わらず、この裁判では数合わせの側面が否めない。わずか一票差ではあったものの文民の広田元首相を列に加えることは、陸軍だけではなく国家の指導体制そのものが誤っていたことを日本の内外に示すためには欠かせなかった。松井大将は、南京大虐殺という本来BC級に回付すべき一訴因での絞首刑であったが、木村大将と武藤中将はそれぞれ対米開戦時の陸軍次官と陸軍省軍務局長であり、板垣大将と土肥原大将は満州国建国時の軍令と軍政の担当者である。連合国側の裁判官が日米開戦と満州国建国という二つの事象のみに注目して「とりあえず」その担当者を処刑したというのは明らかであった。
 しかし欧米流がトップダウンの組織なのに対して、日本のそれはボトムダウンである。また日本においては、歴史的な経緯により陸海軍省よりむしろ大本営に戦争指導の実権があったようだ。参謀本部のとりわけ第一部作戦課における意思決定の過程がどのようなものであったかを見極めるのが戦争責任を考える上では欠くべからざるものであったが、少将級の部長や大佐級の課長について、そういう議論が法廷で大きく取り上げられた形跡はない。
 中韓など周辺諸国との外交関係を一切視野に入れず、信念と意固地を取り違えて靖国参拝を続ける首相の姿勢には感心しない。しかし、それが批判される度にA級戦犯がダシにされることには、その裁判の欠陥を考えるほどに違和感を覚える。法的には、サンフランシスコ平和条約で片のついた話ではあるけれども、もう一度この裁判を直視することができなかったならば、あの大戦におけるわれら日本人の過ちを直視することもできない。安直に右か左かという問題に転嫁するのではなく、その時代に何があったのかを考える姿勢こそわれわれに必要だろう。なお、半世紀以上が過ぎた今日、この戦争裁判ではA級が重罪でBC級は軽犯罪であったという誤解が多々見られる。しかし、A級とBC級の相違は単なる犯罪類型の相違であり量刑の相違ではない。山下奉文大将・本間雅晴中将をはじめとして何と九百人以上がBC級裁判で処刑されているということを蛇足ながら付け加えたい。