シルクロ−ドの終着駅

yosuke0araki2005-12-05

 シルクロ−ドという言葉を、前稿では砂漠を縫うオアシスの道として語った。しかしシルクロ−ドには、狭義のオアシスの道の他に、ステップの道と海の道がある。
 オアシスの道がシルクロ−ドであったのは中国が周から漢を経て唐に至る時代までであった。玄宗皇帝の御代のタラス河畔の戦いは中央アジアを分断し、安史の乱は北方の諸民族の影響力を飛躍的に拡大させて、これを契機に北方ステップの道が東西交易の役割を担うようになった。遼・金・元は次第に中原を浸食し、タタ−ルの平和と呼ばれる草原の一時代を築いたけれども、これに代わる明の永楽帝鄭和を南海に派遣して海上交通の道を開いた。バスコ・ダ・ガマに始まるその一世紀後のヨ−ロッパにおける大航海時代とあいまって海の時代の到来である。このようにみればシルクロ−ドは、オアシスの道・草原の道・海の道へと進化をとげていることになる。現代などは東京からヨ−ロッパへはシベリア北部上空を経由する、さしずめ空の道の時代というべきか。
 さて、日本である。奈良東大寺正倉院がシルクロ−ドの終着駅であるということは、多くの人が中学校や高校で習ったことだろう。しかし、それはシルクロ−ドがゴビ砂漠から長安を経て東シナ海にまで延びていた時代までのことであり、草原の道や海の道には別の終着点があった。海の道のそれは長崎であろう。明・朝鮮そして日本が鎖国政策をとっていた時代の明清の広州と長崎出島は東アジアの窓であった。
 では草原の道の終着駅はどうだったのだろうか。中国では宋と元、日本の鎌倉時代から室町時代にかけてである。ユ−ラシア大陸を縦断するステップ地帯の東端は清からロシアに割譲された沿海州だ。そして沿海州から真っ直ぐ進んだところにあるのが津軽半島である。そしてこの時代、津軽半島には十三湊があった。十三湊の跡は、今では十三湖という寒村になっているけれども、奥州藤原氏の財源であったし、安東氏の拠点でもあった。当時は米もほとんどとれなかった津軽が潤っていたのは、ひとえに交易がなせることであろう。世界史上の一時期、津軽こそが世界の端であったということは、ここから五十キロほどしかない江差に居住する私には大きな誇りである。そして、その津軽半島沿海州の交易を補完すべく築かれたのが十二館である。松前半島にある十二館の存在により津軽半島の周囲は安泰となった。われらが檜山の上ノ国町にある花沢館もその一つであり、江差町文化会館から南方のそれを見やるにつれ世界史を想い気持ちは高ぶる。
 とはいいながら、必ず何か出ると津軽から道南にかけてを探索する駒澤大学OBの考古学者らの意に反して、今のところ三内丸山を凌ぐ成果はこの地方にはない。もし十三湊周辺で欧州製の商品が出土すれば、それこそ世界的な発見になるだろうが、何もできずに手をこまねいている私がいる。