正義の乖離

yosuke0araki2005-12-15

 京都の学習塾で、同志社大学法学部に在籍するバイト講師が塾生を刺殺するという事件が起きた。現在の捜査段階においては歪んだ小児性愛によるものではないとされており、その点においては広島と栃木で相次いだ女児殺害事件とは同類型にできないと思われる。しかし、おちおち習い事もさせられないという恐怖感を世の親達に与えたこの事件の社会的な影響は甚大である。
 窃盗及び傷害の容疑で収監され停学処分を受けた容疑者の履歴が明らかになると、この塾のバイト講師採用のあり方が批判に晒されることになった。企業が使用者責任を負わなければならないのは当然であり、これまでのような経営を維持できなくなるのは不可避だけれども、窃盗&傷害という罪名には違和感を覚える。
 それは女子学生の鞄から財布を盗み、見とがめた警備員ともみ合いになった上でケガを負わせたという事件が、明らかに窃盗と暴行との連続を強盗とみなす刑法第238条を適用すべきものだからである。刑法上の量刑は、窃盗が10年以下の懲役とされ(第235条)、傷害が10年以下の懲役もしくは罰金・科料とされている(第204条)のに対し、強盗致傷は7年以上の懲役とされていた(第236条;ただし去年の法改正で6年以上とされている)。法定刑が7年であれば酌量減軽しても(第71条)執行猶予することができない(第25条)。
 強盗致傷とすれば実刑はやむをえなかった。必ずしも悪質な事件とはいえず、前科もない将来のある学生のことであったから、そのとき実刑を科するのは社会的にみて妥当ではなかったのだろう。しかし、社会的な妥当性と法的な妥当性は異なる。法を守護すべき立場にある警察・検察・裁判所は、法的な妥当性を選択するべきであったと思われる。そして警察が社会的な妥当性を選択して強盗致傷を窃盗&傷害に置き換えて事件を処理したために、実社会に残ることが許された学生が今回の事件を起こしたのだから、警察もその選択に結果責任を負わなければならない。
 社会的な妥当性よりも法的な妥当性を選ぶべきだというのは本件に始まることではなく、常々私が考えていることであった。かつて新潟の少女監禁事件において、高等裁判所の懲役11年判決を支持して、地方裁判所最高裁判所の懲役14年判決を難じたのも、この選択によってであった。被告の道義的な責任よりも、私は被告の刑を軽減するためにある併合罪の立法趣旨を重んじたのである。
 法が人間の立てるものである限り、法的な妥当性と社会的な妥当性が乖離する事態は常に存在する。そして、その乖離をいかに小さくするかは議会や、それを支える行政機関に課せられた使命でもある。