モン族の少女

yosuke0araki2006-02-13

 年末年始、アメリカ大陸を横断した。メキシコ西岸のティファナからカナダ東岸のモントリオ−ルを経てニュ−ヨ−クに至る陸路は、言語も気候も食事も様々であった。そして、この鉄道旅行の中軸においたのが、ロサンゼルスからシカゴまで2泊3日のサウスウエストチ−フ号だった。眠れずにいた夜更け頃、ラウンジでアジア系の女子高校生2人組と知り合った。旅行者というのは、いつだって話題をふりまくには有利な立場だけれど、このときも17歳のBeeは、日本や日本人の私に興味を持ってくれたようだった。
 ほとんど時刻表通りに列車が運行する日本や、大幅に遅れるのが当たり前のエマ−ジング諸国とは異なり、アメリカではダイヤが緩く組んであるために、障害がなければ途中駅で時間調整のために長時間停車することになる。私たちは、30分のはずのニュ−メキシコ州アバカ−キ−に3時間近くいた。突如として砂漠の中に現れたアバカ−キ−は、西部劇さながらの閑散とした街だった。二人でその殺風景な街を歩いていたとき、Beeは喫茶店にでも入りたかったみたいだったけど、私は時差の感覚がつかめないのが怖くて全く落ち着かなかった。この街に所縁が深いインディアンが、ぼくたちと同じアジア系のル−ツを持つのだとか、みやげものの腕飾りを弄びながら、深みのない話をしていた。
 Beeは、自分がラオス系モン族だと言っていた。モン族について、私は以前どこかで読んだことがあるような気がしたが、旅先ではどうしても思い出せなかった。Beeの家族は、ベトナム戦争のときに共産党に追われて渡米したそうだ。親戚のいるサンフランシスコへ遊びに行った帰りだったそうだ。高校を卒業したら西岸都市でデザインの勉強をしたいと言っていた。ときには国について語り、ときにはトランプに興じ、列車の中の時間はあっという間に過ぎた。そして新年を迎えて2時間ほど、カンザス州の田舎町でBeeとその友達は下りた。
 日本に帰ってから、私はモン族について調べてみた。そして、その民族の運命の凄まじさに愕然とした。中国の歴史書史記は、黄帝が中原を平定するところから始まるのだが、その時に討伐されたのがモン族(苗族)だったという。いわば漢民族の最初のライバルであった。そして4000年という漢民族の拡大の歴史の中でモン族は、北から南へ、低地から高地へと追いやられることになる。呉三珪らの三藩の乱の後、モン族は雲南からラオスへと移住した。しかしラオスも安住の地とはならない。ハノイの喉元にあたるラオス山岳地帯の軍事的重要性に目をつけた米軍に、モン族が協力したためだ。ベトナム戦争に勝利した共産党政権は徹底的に報復。そしてラオス国内のモン族の実に半数以上がアメリカに亡命することになった。
 モン族は中国でもラオスでも、少数民族としての経済的には不利な立場に置かれているという。これに対して、渡米組はBeeもそうであったが、アジア系移民としては際立って恵まれた経済環境にあるようだった。しかし渡米組には、帰るべき祖国はない。国や経済が人間にとってどういう意味を持つのか、そういう大きな問いかけを放つモン族の歴史であった。私は、そのBeeに対して、日本や韓国を含めた東アジアの文化的な源泉は中国であるとか、国の規制で縛り付ける日本の制度は計画経済そのものだとか、私は世界や日本の歴史が好きなのだとか、脳天気に喋っていた。自分の言葉の夫々を思い出すだけで、気恥ずかしくなってしまう。
 Beeと出会って、私は歴史を学ぶことがいかに大切か、そして私自身がいかに無学であるかを実感することができた。そして、もう一つ気づかされたのは、世界史を学ぼうとするときは、その主流を把握しようとするために、ゲルマン民族・ラテン民族・漢民族日本民族というような多数派ばかりを意識してしまう傾向があるということである。旅にしてもそうで、多くの国を行き来しているようで、その実は特定の民族の特定の価値観の枠組みの中だけに私は閉じ込もっていた。もっと多くの民族の、もっと多くの価値観に触れてみたい。そう強く感じたアメリカ横断鉄道だった。
 
 その後、Beeには何度かメ−ルを送ったけれど、ついに返信は得られなかった。