戦略と戦術

yosuke0araki2006-03-19

 明治維新の後、日本は欧米の文化を積極的に取り入れたけれども、富国強兵の主軸を担う軍部においてもその傾向は顕著であった。ドイツからモルトケ参謀総長の愛弟子であるメッケルを陸軍大学校教官として招くとともにクラウゼッツの「戦争論」を翻訳して、ドイツ流の戦術を吸収しようとした。
 しかし特筆すべきは、陸軍当局が翻訳したのが戦争論の前半部つまり戦術論に限られたということである。当局に無視された後半部の戦略論に光を当てたのは兵科ではなく軍医である森林太郎であった。後に軍医総監にまで栄進する森は、個人的に戦略論を翻訳し、それを親友である田村怡与造に進呈した。田村少将は参謀次長在任中に夭折するが、その戦略は後任の児玉源太郎中将に引き継がれ、成果は日露戦争で発揮されることとなった。大国ロシアを打ち破った功績の一端は、ペンネ−ム鴎外で知られる森林太郎の翻訳に帰せられることは明らかである。
 しかし日本の陸海軍はこの勝利から、戦略の重要性を学ぼうとしなかった。旅順攻略・奉天会戦日本海海戦といった個別の戦闘における戦術的な技巧のみが論ぜられたのである。そして日露戦争から二十余年を経て、久々に戦略の重要性に注目したのは関東軍の石原完爾作戦参謀であった。ただ、石原参謀は柳条湖事件を発端に満州事変を仕掛けて一躍して時の人となるけれども、その戦略を具現化するにあたり二つの致命的な失敗をする。
 失敗の第一は、戦略と政略をはきちがえたことである。あくまで戦争に勝利するという軍部の使命の範囲内であるべき戦略が、満州国の建国という極めて政治色の強い事態に及び政略に変質してしまった。満州国の承認をめぐって日本が国際的な孤立を強いられたということは、石原参謀の手におえる事態ではなかった。
 そして、より大きな失敗の第二は、陸軍内部における戦術すなわち作戦のパワ−を見誤ったということである。作戦を主管する参謀本部の第二課長から作戦部長に昇格したとき、石原少将は第二課長に河辺虎四郎大佐、第三課長に武藤章大佐を据えるとともに、第二課主管の作戦を第三課に移して、第二課を戦争指導課とした。石原少将と同じく北平(北京)での中国国民党との軍事衝突を回避しようとする河辺大佐に戦略を、的確な用兵の優秀な軍事官僚である武藤大佐に戦術を、それぞれ分担させるというのは机上では合理的なことであったろう。しかし、盧溝橋事件が発生すると、石原少将と河辺大佐の意に反し、作戦課に引き摺られる形で日中の全面戦争へ発展していく。石原少将の更迭後、同じく不拡大派の下村定作戦部長は作戦業務を第二課に戻すけれども、ついに戦争を収束させることはできなかった。
 さて、今日の自衛隊である。武官である統合幕僚会議議長が、政治家である内閣総理大臣防衛庁長官だけでなく、文官である防衛事務次官の下風に甘んじるシビリアンコントロ−ルの徹底によって、制服組が政治に介入することはついぞなくなった。靖国問題によって、ロシアに加え中国や韓国まで仮想敵国となってしまったが、その外交の枠組みを自衛隊が変更するということはありえない。しかし戦略の喪失というのは、相変わらずというべきである。冷戦時代には、わずか一個師団を主方面に配して音威子府決戦を想定していたが、時代が変わっても、警察・消防並みに防衛力で全地域を網羅しようとする限り、脆弱性は免れない。私は戦略的観点から、自衛隊の総力を広島・札幌・長野の3都市近郊に集約すべきだと考えているが、被爆都市広島に拠点をおくことには、政治的に大きな問題を孕むため、機会があれば別に論じることにしたい。いずれにしろ、捨てるべき地域は切り捨てる戦略的覚悟が、外交に期待を持てないわが祖国日本の防衛に必須なものとされるのは明白である。