格差社会

yosuke0araki2006-06-03

 麻垣康三と称された自由民主党の総裁レースは、どうやら本命・安部晋三官房長官、対抗・福田康夫官房長官という構図になってきているようだ。この二人はそれぞれ清和会の会長であった安部晋太郎・福田糾夫の子であり、初入閣で重要ポストである官房長官に就任するなど共通点も多いけれど、こういう共通性に注目されるのは岸信介佐藤栄作ら華麗な一族に連なる安部長官に有利であり、50を過ぎて初当選した福田前長官に不利である。もちろん、プロフィールだけが総裁レースの争点として大きくとりあげられているのはない。靖国参拝などで冷え込んだ中国・韓国などに対する外交姿勢などもテーマになっている。そして、格差の拡大をどう考えるかということもまた大きなテーマになっている。
 格差社会という問題は、構造改革のひずみとして取り上げられることが多い。すなわち総中流と称された日本社会が官から民への潮流の中で市場原理によって格差を拡大させたというのである。私個人としては、就職活動で割を喰ったという経験から、今春に活動した世代との不平等は感じる。多くの人がそう感じるからこそ、第二新卒という言葉が定着したのだが、今の第二新卒リクルート市場によって学年ごとの格差を吸収するのは不可能だろう。しかしながら、だから格差がないとはいえないし、場合によっては政策的な対応も求められるのだけれど、そのことと格差是正を国策とする方向が直結するものではない。
 なぜならば六本木ヒルズの華やかな生活を空想することによって、人は格差の存在を実感するけれども、論理的な格差の証明というものを私は見たことがないからだ。格差の存在を示す最有力の指標としてはジニ係数がある。しかしジニ係数が最も不平等だとする全ての富が一人に集中する社会を、私は必ずしも不平等であるとは考えていない。雲の上の人を実感しさえしなければ万人が貧しくとも平等なのであり、その日常においては貧困は所与のものだからである。むしろ富裕層と貧困層によって社会が二分され、搾取の構造が具現化する社会こそが格差による矛盾を噴出するのだろうが、ジニ係数はそのことを示すことはできない。
 格差を社会科学的にどう正当化するかについての最も有力な学説は、ジョン=ロールズの「正議論」だろう。正議論は機会の平等を主張するとともに、結果の不平等が容認される場合として、最も不利な人にとって有利な競争であることを条件としている。これは大枠としては中国の改革開放に当てはめることができる。つまり全ての国民が平等に貧しい社会主義中国において、沿岸部がまず豊かになったとしても、それを原資として西部大開発ができるならその市場化は容認されるべきだと議論できるのだ。現実がこのように上手くばかりはいっていないとしても、格差を論理的に位置づけるための重要な指針になるだろう。しかし、ロールズの議論をもってすれば、構造改革による格差を正当化するためには、低位に甘んじている人にとって改革による効用がどれだけのものか示すことが必要になる。天下百年の計が、すぐに数字になるわけはないのが悩ましい。
 結局、格差の存在の有無も正当化できるかも分からない。しかし、分からなくても考え続けなければいけないのがこの問題だと思う。考え、議論していく中で社会における自己の存在が見えてくる、そんな気がする問題である。