英会話

yosuke0araki2006-06-16

 最近、NOVAに通いだした。何を今さらと、思わぬでもない。中学校1年生の頃から、英語は常に私の人生の足を引っ張る存在だった。京大受験に失敗したときも、霞ヶ関への就職に失敗したときも、もう一歩という実感はあったものの他方でライバル達との英語力の差は認識していた。世の中で個人の能力を測定する指標として英語というものさえ存在しなければ。どれだけ無意味な空想に耽ってみたものだろうか。そして私は、北大を経て道庁にいる。今の職場なら、国際課などごく一部の特殊な部署への異動希望でもださない限り、英語と縁の無い人生を送ることは十分に可能だろう。しかし天邪鬼とでもいうか、この期に及んで何故か英会話スクールへ通ってみようと思うようになった。
 直接の動機は、旅行のためということである。就職内定から今日まで4年間に、ニュージーランド、インド、イギリス、仏独伊、韓国、ロシア、アメリカへと7度海外へ繰り出した。次は中国の予定である。もちろん国によって英語の通用度は異なるが、いずれにおいても母国語を除けば英語が最も有用であり、英会話さえできれば旅先の不便はともかくとしても最低限のことはできる。副次的な動機はインターネットの利用のためである。世界中の情報が瞬時に行き交うネット上において、主たる言語は英語である。英語を身近にすることは世界を身近にすることである。
 ところで、私は「文学界」という雑誌を定期購読しているのだけれども、最新号の特集は国語教育の復権ということだった。そしてその巻頭には明治大学斎藤孝教授とお茶の水大学の藤原正彦教授による小学校への英語導入を批判する対談が掲載されていた。第一に、外国語のスペシャリストとして外国語の知識を日本語に取り入れる人は必要であり、その人は全力で英語を勉強する必要があるけれど、全ての日本人に英語を強いるのは時間の無駄だ。第二に、小学生のときに中途半端に英語を勉強してもそれだけではとうてい会話ができるようにはならず、それなら柔軟な頭脳のうちにより豊富な知識を日本語で吸収した方がよい。第三に、英語のできる国民性と経済成長は関連性はなく、それは英語至上主義を企図する米英の策略だというのが、論点だったろうか。「声に出して読みたい日本語」の教育学者と「国家の品格」の数学者は、その性格も価値観も対照的だったから、その対談は読み物としてなかなか面白かった。
 第一の点に関しては、まさに私が学生時代に思っていたことであり、第三の点に関しても、おそらくは事実としてそうであろう。しかし、それでも私はできれば小学校で英語を必須にするべきだと考えている。それは彼らの想定する英語教育そのものが彼らの言語観と乖離しており、目的においても方法においても間違っていると感じるからである。つまり、言語は手段であり目的でない。英語を学ぶとき、英語そのものができるようになったかは問題ではなく、その英語を手段としてどれだけの未知なるものを取り込むことができるかが重要なのである。そういう言語が当然に有する本質を見失っている英語という試験科目こそ排されるべきであり、言語としての英語に罪はない。
 私の提案は夏休み。毎年1ヶ月、小学生にマレーシアで英語生活させるのを制度化してみるのはどうだろうか。12分の1であれば、日本語を忘れてしまうというようなばかげたこともないし、日本という国を客観的にとらえることもできるようになる。別に、マレーシアにこだわるつもりはないけれど、制度的そして計画的に一ヶ月海外留学を定着させれば、その費用は現在の何分の一にもなるだろう。そして、いくら財政難でも、人をつくるこういった事業には、行政も奮発するべきだと思う。