温暖化と北海道

 個人的な人間性はともかく組織の意思決定では組織のエゴを貫徹するべきだと思う。北海道庁であれば、世界や日本のためになることを考える必要はなく、北海道民のためにどうするかを考えればよい。もちろん、地球を破滅させてはいけない。しかしそれは、地球が破滅したならば、北海道が単体で存在できるわけもなく、つまるところ道民のためにならないから回避すべきというだけのことである。
 そういう観点からみると、温暖化防止のための貢献ほどバカバカしいことはない。温暖化すれば日本の穀倉地帯は北上し、北海道農業は生産性を高めることになる。温暖化すれば世界的には食糧事情は逼迫するだろうが、農産物は、工業製品と異なり価格弾力性が低いから供給量が減れば減るほど供給側が有利になる。たしかに十数年の範囲では、水没するなどして内地の経済が停滞し、その余波を北海道も被ることになろう。しかし、数十年数百年をみたとき、このことは北海道への企業立地を促し、日本経済の中心を北海道へシフトさせる方向に働く。そういうことから、私は北海道職員として温暖化を待ち望んでいる。
 しかるにである。サミットを睨んでということなのか、最近は温暖化防止のための取り組みが多すぎる。東京の人がするのはいいが、北海道でのクールビズ蒸し風呂は自虐的である。そうするならば、道外のために北海道が自虐的努力をしているのだから、また亜寒帯の森林が内地の人間が吸う酸素を提供しているのだから、それを補填してもらいたいものである。よく批判される地方交付税交付金や国庫補助金への依存は、必要なものを恵んでもらうという姿勢が問題なのである。温暖化防止のための施策では、権利として倍返しを主張し、それが受け入れられなければ一度その努力をやめてみるというのも霞ヶ関との関係では有効であろう。

 ところで、映画「デイアフタートウモロー」でも触れられていたが、温暖化の効果は単純なものではない。マリアナ付近で湧き上がり、北西太平洋からインド洋を横断し、喜望峰から大西洋を縦断しグリーンランド付近で沈み込む巨大な海流の存在が知られているが、北極の氷が解けて海水の濃度が低くなると、大西洋での沈み込みがなくなり大循環は止まってしまう。そうすると、北大西洋沿岸では暖流の供給がなくなり、温暖化により返って寒冷化するという。結局のところ、天命を人智が予測できるわけもないのだ。ただ、状況の変化をどう受け止めて対応していくことが自己にとって最善か考え続けていかなければならないだけである。