第137回芥川賞選評

 この半期の文学界で大きな話題となったのが綿矢りさ「夢を与える」である。「蹴りたい背中」の緻密な描写により最年少で芥川賞に輝いた彼女が、その狭い世界を放棄し、暗示に満ちた人生を鳥瞰したこの作品が“失敗作”であるということは、多くの論者が共通して述べている。しかし、ある人はそれが新境地に至るために避けられない試行錯誤の過程だとするのに対し、ある人はそのベタな表現を容認するのが彼女にだけ親切な読み方なのだという。
 向上心のある人は、誰かに認められるまではあれこれ失敗を繰り返しながら工夫すものだけれども、何百何千分の一の僥倖を得て自らの居場所を確立するや、その世間から見える自分を演じるようになるものである。だからぼくは、無名人がたまたま試みたものが当たったような作品(衝撃的な新人賞受賞作)なら芥川賞はもう一回待つべきだろうと思う。その一方で、既に名声を得た綿矢りさが「インストール」並みの低水準の作品を出しても、それが彼女の自覚する“小さな世界”を放棄するためのものであるなら好感を持って受け止めたい。

 さて、土曜日アポイ岳への列車の中で候補作に目を通した。今回は、試行錯誤の新人賞受賞作が二つ、自らの求められる役を演じる冒険しない作品が二つ、芥川賞など意識の外の佳作がたまたま編集者の目にとまったのが二つといったところだろうか。
 円城塔オブ・ザ・ベースボール」(文学界6月号)は、人が空から落ちてくる町のレスキュー隊員の話。仕事しないうちは町の人から尊敬されているのに、仕事(落ちてくる人をバットで打つこと)したら失職してしまったというのが落ちだった。示唆深い寓話ということなのだろうが、人が落ちてくるというのは非現実的であり、やりすぎである。諏訪哲史「アサッテの人」(群像六月号)は、言語障害から奇行が多くなり、やがて失跡した人について、歳の近い甥が語る作品。叔父の失跡までのプロセスにはついつい引き込まれるし、何よりも作者が述べないことも考えさせられる。ただ残念なのは、地の文と叔父の手記と義叔母の手記に人格の相違が見られないため作品としての厚みがないこと。デビュー作から深みと厚みを兼ね備えるなんてなかなかできないことだろうけど。
 松井雪子アウラ アウラ」(文学界3月号)は、想像妊娠の話。彼女の漫画から飛び出したような独特の世界は「恋蜘蛛」のとき感心したけれど、ネットで知り合った人との共感は「日曜農園」の二番煎じである。妊娠を扱った作品としては小川洋子の「妊娠カレンダー」があるが、今回の作品はそういう心の不気味さを意図的に回避しながら心を描こうとしているからあちこちに無理がきている。柴崎友香「主題歌」(群像六月号)は、かわいい女の子を見るのが好きな女たちを描く。同性愛でもないその微妙な視点の良さは、彼氏やお母さんなどを時折差し挟むことで引き立つのだが、風景画を描くようなその静態的な感覚は「その街の今は」と代わり映えしない。
 「わたくし率 イン 歯ー、または世界」は歯科助手をしながら、まだ見ぬわが子に語りかける話。正直、私はなぜこの作品が芥川賞候補なのかよく分からなかった。早稲田文学0に掲載されたこの作品を候補作とするのは、作者の川上美映子がビクターエンタテインメントに所属した歌手であり、作品の内容はともかくとして話題性があるだろうことを見越したことだと思わざるをえない。
 前田司郎「グレート生活アドベンチャー」(新潮五月号)は、松尾スズキ本谷有希子に続く演劇三代目。しかし、このバカバカしい作風には大きな可能性を感じる。ニートが一日中テレビゲームをやっているというだけの話だが、2Gの木棒で悪魔を殴り倒す心の動きは生き生きと伝わるし、彼女に愛想をつかされながらも何故かうまくいく気がするというのも共感が持てる。とりわけ存在感が光るのは若くして亡くなった妹の回想。論説的なことは一切述べないのに胸を突かれる。この賞の候補としては、やや短すぎる気はするものの佳作である。

 それで結論的には、希望的観測も交えて、○前田・△諏訪としたい。選考会は17日とのことである。