教育の標

 私は、北海道の発展のためには製造業の強化こそが大事であると考えている。そして、ハード面では独自の通貨と税関を持つこと、ソフト面では教育の再建こそが、そのためには不可欠と考えている。
 ただ前者には天の時を得る必要があるのだから、各界を挙げて不断の努力をしなければならないのは後者における百年の計である。外から移住してきた私の目から見ると、北海道の人は受験勉強の弊害を殊更に取り上げることにより、子供の読み書き能力や数的感覚を鍛える機会を疎かにする傾向が強い。読み書き能力は、言語学者にならずとも、人間として生きていくためには絶対に役立つものなのだ。いい学校に入るばかりが能ではないというような建前を大上段に振りかざすよりは、その受験勉強の過程で得られる能力や、高等教育の学校でしか味わえない学問の醍醐味に思いを致すべきである。
 そうはいっても、私とて受験礼賛のつもりは到底ないし、教育が百年の計だということも社会の共通認識になりえるから、理論的にはそう突飛なことを述べているつもりはない。ただ、その教育を製造業と連結して考えるとたちまち二つの批判を私は浴びることになる。
 いくら教育しても、優秀な人材が外へ流出していったら意味がないという批判は、多数の人が口にする。しかし、私はこれをナンセンスだと思う。教育と経済の螺旋でより格差が再生産されている現状においては、それをどこかで断ち切らなければならないのであり、鶏が先か卵が先かなど言っている暇はないのだ。そもそも教育というのは大人一の力で子供十の未来を創るものなのだから、半数の五が出て行っても何ら問題にならない。
 経済のための教育というのが教育といえるか、そういう批判を口にする人は数少ない。しかし、こちらの批判は私の最も弱いところを突いているという自覚がある。なぜなら、経済のための人間づくりというのは、戦争のための人間づくりというのと、思想としては異なるところはなく、いずれも個人の価値を抑圧し、全体主義に陥る危険を孕んでいるからだ。したがって、私の主張するように、製造業を担える人材を教育により育成するということになれば、全体主義に陥らない何らかの思想的なスプリンクラーが必要になるものと思われる。
 このようなスプリンクラーの存在を私はまだ知らない。しかし、そうなる可能性を持っているのは、やはりクラーク精神であると私は感じている。クラーク先生は、札幌農学校の開校にあたり、いかにして社会に役立てるか、そういう野心をもって生きていくよう訓示した。先生の弟子の新島譲が良心と呼び代えたものであるけれど、これこそが社会経済のために貢献しながらも全体主義に陥らない人間を育てていく指針になりえると感じている。