瀬戸内源氏

 私がはじめて源氏物語にふれたのは富山中部高校の古典の時間。京都にいた浪人時代の与謝野晶子にはじまり、20歳前後には何人もの訳者の源氏を通読したものだった。そして30になった今年、たまたま文庫本が発刊された瀬戸内寂聴の源氏を読んだ。
 どんなに面白くとも一度読んだ作品を二度と読むことはない私が源氏に限って繰り返すのには、むろん難解であるために、一度で理解しきれないということもある。しかし、仮に私がその内容を完全に掴んでいたとしても私は源氏を読み返すことだろう。それは、そのときどきの自分、そのときどきの訳者によって、全く違う源氏の側面が感じられるからである。

 最初の与謝野のとき、私が惹かれたのは宇治十帖における人間関係の妙であった。当世に輝く薫大将と匂兵部卿宮と、日陰におかれた八ノ宮家の姉妹、とりわけ浮舟の姫君との交錯は、現代のテレビドラマにも通じる新鮮な読感を与えてくれた。私は、ただ宇治十帖のためだけに、JR片道230円の宇治へ行き、川べりで彼らに想いを馳せながら読みふけっていたものだった。
 しかし、谷崎源氏、円地源氏と読み進めていくうち、この繊細な宇治十帖の世界は源氏物語全体の構造の中に秩序づけられていることに気がついた。すなわち源氏の派手な恋愛関係のために目立たないが、権勢におもねることなく須磨の源氏を見舞った頭中将の友情が、二人の栄達の過程で対立構造に変わっていくという重要な論点がある。この友情でありながら対抗心も併せ持つ関係性は、両者の子である夕霧と柏木、そして両者の孫である匂宮と薫へと引き継がれていくのである。そういう枠組みを意識することによって、ますますこの物語のスケールの大きさに惹きつけられた。
 さて、久々となった今回。最も強く感じたのは源氏という個人の人間的な厚みである。彼をただのプレーボウイとみなしたり、藤裏葉の巻に象徴される政治的な権勢に焦点をあてて評するのは適当ではない。蓬の生い茂る屋敷で自分を待っていた末摘花の面倒を生涯にわたってみる暖かさと、折にふれてその醜さや古めかしさを物笑いの種にする冷酷さ。女三宮の密通の相手である柏木を言葉で追い込んで死に至らしめる非情さと、その子である薫を抱きながら自らの罪の意識に震え慄く弱さ。こういう感情は、多かれ少なかれ誰にでもある。誰にでもある多様な感情(とりわけ人にみせたくない醜い感情)を凝縮させたからこそ、光源氏は魅力的な人物になっているのである。