第138回 芥川賞選評

 私小説の世界において、その小説の鍵を持つのは魅力的な脇役の性格を描ききっているかにあるように思える。つまり主人公は作者の人格に限りなく近い存在であることが多いが、それとともに不特定多数の読者の感情移入を受け入れる存在でもあるから、その個性は最大公約数的な普遍性を持ったものにならざるをえない。その上で、小説の中の人間同士の関係を動的に描こうとすれば、主人公と大きく関わっていく他者を個性的に描かなければならないのである。しかし人格を個性的に描こうと努力するほど、その人間としての矛盾点が鼻につく。現実に生きる人間はそういう矛盾に満ちたものであって構わないのだけれど、限られた紙面の中での登場人物の矛盾は、その小説の破綻を意味する。今回の芥川賞候補作は7作。しかし私は、魅力的な脇役の性格を描ききっているかという観点だけで、川上未映子「乳と卵」(文學界12月号)、中山智幸「空で歌う」(群像8月号)、西村賢太「小銭をかぞえる」(文學界11月号)の三作が選に漏れると考える。
 「乳と卵」は、豊胸手術をしようとする姉と初潮を迎えた姪を対比していく話。このうち人間として不思議であり魅力的なのは姪の方であり、親と会話ができなくなった経緯やその揺れる思春期の心を掘り下げていけばよかったであろうに、作者の焦点はむしろ姉の方にあるため、姪の描写が中途半端になってしまった。「空で歌う」は、兄の事故死の後、兄の元恋人と種子島へ旅行にいく話。終末、兄の元恋人に関係を迫ろうとして拒まれる場面があるが、兄の個性の描写に成功していないから、元恋人の矛盾するような反応に合理性が感じられず、主人公の行動の空虚感が伝わってこないのだろう。「小銭をかぞえる」は、金策に困った主人公がかつての友人に借金を断られ、恋人の親に頼るも、些細なことで恋人と喧嘩してしまうという話。主人公のあまりの非社会性にはかえって共感できるけれども、そういう駄目人間にもついつい惹かれてしまう恋人の感情がどこからくるのかを示唆する必要があった。他方で、田中慎弥「切れた鎖」(新潮12月号)は前回候補作同様に歴史の構造を用意し、その中で名家の四代にわたる女性の個性を描こうと試みており、その野心と意欲には敬意を表するが、文章量に比して構造があまりにも大きすぎるため、不完全燃焼の感が否めない。

 「カツラ美容室別室」は、美容室の3人の店員と知り合い、そのうちの同い年の女性と親しくなった男の話。女性著者による男性の視点も悪くはないのだが、高円寺商店街…というのは、平成のはじめの頃の直木賞作品を思い出さずにはいられないし、この美容室という舞台装置が作られすぎているように思われる。「カソウスキの行方」は、左遷先の同僚二人のうち冴えない方をとりあえず好きになったという女の話。仮想好きというバカバカしいものであり、見方によっては美容室と小説の構造はよく似ているけれども、前述のような脇役の個性という点では一日の長があろう。福引所で1等を引いてしまうのは蛇足だったけど。
 「ワンちゃん」は、中国人女性と日本人男性の結婚紹介業を営む在日中国人女性の話であり、文學界新人賞受賞作。おそらく著者自身が感じてきたであろう中国と日本という国のハザマを駆け抜ける時代のウネリ、性に惹かれる男たちへの中年女性の視線、そういったものが実感として伝わってくる。おそらく結婚紹介という舞台装置そのものが、その参加者の個性を引き出すにはうってつけであり、著者がその装置を活かしきっているのだろう。

 そういうわけで、楊逸「ワンちゃん」(文學界12月号)、津村記久子「カソウスキの行方」(群像9月号)、山崎ナオコーラ「カツラ美容室別室」(文藝秋号)の三作に甲乙つけるならば、私は、本命:楊逸、対抗:津村になるだろうと考えている。選考会は1月16日である。