自家用車

 麻薬など一部の人の嗜好品や、偽装食品など欠陥商品であれば、マスコミはよってたかってその害を取り上げる。しかし、その商品が人々の間に浸透しており、それを取り除いた生活が想像しがたいとすれば、リスクを所与のものと考えてしまう。「一人を殺せば犯罪者だが、万人を殺せば英雄。」とはよく言ったもの。そういう百害ありながら規制の対象にならなかった商品の代表格は、かつて煙草だったろう。今、それはとりわけ北海道にとって自家用車であろう。
 自家用車の害の第一は、安全にある。わが国の年間の交通事故死者数は5,000人超。このほとんどが自家用車によるものとされている。マスコミが取り上げる禁制品や欠陥商品の中に、これほどの殺傷力を有するものが他にあるだろうか。人の命が大切であるという価値観があれば、それは自家用車の便利さよりも優先されるべきものである。
 自家用車の害の第二は、環境にある。公共交通機関の乗員が多数であるのとは異なり、自家用車の乗員は数人もしくは一人である。一人あたりの燃料消費量は当然に高くなり、石油資源の枯渇に拍車をかけることになる。
 自家用車の害の第三は、経済にある。北海道のように自動車産業が集積していない土地では、本州から自家用車を移入するしかない。しかし、もともと小さい購買力であるのに、さらに自家用車を購入すれば、他の商品の購入に回せる家計収入はより小さなものとなる。
 自家用車の害の第四は、地域にある。自家用車を使用すれば自宅から大型郊外店へ直に行けるため、地元の商店街に寄る機会がなくなる。このため本州資本の郊外店のみが潤い、その地域の商店は寂れていく。そうなると、さらに郊外店への需要が高まり、自家用車のない生活が成り立たなくなる。
 自家用車の害の第五は、健康にある。誰でも年をとれば足腰が弱っていくものだが、自家用車があれば隣の家へ行くにも使用しがちになり、結果として足腰を使う機会が少なくなってしまう。日ごろ使わなければ、衰えも早く、その医療費ばかりが嵩むことになる。
 自家用車の害の第六は、教育にある。自家用車が当然のものとなれば、公共交通機関は減らされ、廃されていくのは当然の帰結である。そうなれば運転免許を有しない高校生の通学の手段は両親の自家用車しかなくなる。両親が送迎できる家庭だけが高校に通わせることができるなどということになれば、教育の機会均等はあってないがごとしである。

 私の偏狭さでは、百害のうち六害までしか指摘できなかった。しかし、自家用車の便利さを前提に設計されている社会ゆえに誰もが自家用車を持つという循環の方向性が必ずしも望ましいものでないことは確かだろう。例えば身体障害者であるとか、自家用車がなければ生活できない人などへのフォローはしなければならないが、その点をクリアすれば、車社会の歪さを是正することこそが、制度設計の名に相応しいものといえよう。そういう意味では、ここ最近の石油資源の高騰は、社会のあり方を省みる恵みの雨と言えなくもないのだが。