第139回 芥川賞選評

 小説は、人間を表現する営みであるが、それは時間軸と空間軸を織り合わせて作られる。しかし、物事を時系列的に語ることが自然であるがゆえに基本的には一方通行の時間軸に対して、空間軸をどのように設定するかには無限大の可能性がある。そして、その空間軸の設定の難しさを感じさせられたのが、今回の芥川賞候補作だった。
 舞台を外国におきながら、日本の読者に問いかけるという立場で展開するのが、楊逸「時が滲む朝」(文學界6月号)と磯崎憲一郎「眼と太陽」(文藝夏号)である。「時が滲む朝」は、天安門事件の頃の中国が舞台。学生運動の結果として追われた祖国への、その後の複雑な感情を描いている。国という壮大なテーマを取り上げる作者の意気込みにはデヴュー作でも感心させられたが、日本語が稚拙だと指摘されながらも登場人物の個性を描ききった前作と異なり、何かステレオタイプな印象を受ける。天安門事件なのか日本の全共闘なのか分からないような形容も多く、舞台装置が俳優の演技を妨げているようにも思える。「眼と太陽」は、日本への帰国前にアメリカ女と知り合い、腋毛を見たときに結婚を決意するというものである。外国体験には、外国を知ったがゆえに、かえって日本について知るという側面があるが、この小説は、どうもそういう緊張感からは無縁のようである。散漫に詩的な描写が並べられているだけでは空間を大きくとる意味がない。
 空間軸の設定には、前二者のように遠隔地の地の利を生かそうとする手法もあるが、空間を移動することそのものを表現する手法もある。ページをめくる度に、時間が推移するだけではなく、物理的な距離も移動していくということになれば、その俎上にいろいろなテーマを乗せていくことができよう。そのような意味で乗り物というのは、小説を書くための絶好の素材になりえるのだが、今回の自転車とバスは、いずれもそのような強みを生かしきれていない。羽田圭介「走ル」(文藝春号)は、高校の試験明けに何の当てもなく野宿しながら自転車で北上し、東京から青森に至るという話。こういう衝動性や、戻るきっかけを失うという心境はよく分かるので好感を持ってはいるのだが、彼女もうすうす気づいていたとかのオチのインパクトがあまりにも弱すぎる。余談だが、地理的な間違いは目立っていたので、もっとゆっくり東北旅行してから書いたほうがいいのではと思った。小野正嗣「マイクロバス」(新潮4月号)は、知的障害のあるマイクロバス運転手の錯綜した感覚を描こうとしているが、一人称でも三人称でもあるような微妙な語りが小説をさらに難解にしているようだった。乗り物で良かったのはタクシー。 岡崎祥久「ctの深い川の町」(群像6月号)は、タクシー運転手として勤務する主人公が風変わりな同僚と仲良くなったとか、偶然に昔の同級生だった女性を乗せたとかいうような話。ほんの少ししか登場しないが若い女の先輩が、とても強い存在感をだしており、その置手紙をついつい読み返してしまった。ひとつの乗り物は、乗車地点と降車地点と車内という三つの場所を創る。日常を単調に書き流しているようでありながら、そういう計算もなされているようだ。
 全盲の主人公が恋人と別れてから旧友と再会するまでのいろいろを描くのは木村紅美「月食の日」(文學界5月号)。現実に存在したならばきっと魅力的でない旧友の妻に、この小説では惹きつけられる。ものを見たことのない盲人に、月食を伝えようとする彼女の気持ちと、月食の妖しい美しさが重なってしまうからだ。赤い月は、われわれの心にまで問いかけてくる存在感を有している。最後に津村記久子「婚礼、葬礼、その他」(文學界3月号)。私は、途中まで主人公が男性だと誤解したまま読み進めていくという失態を犯したが、そういうことに頓着せずにも行を追える無駄のない展開は作者の力量によるのだろう。しかし、旅行をするはずが、友人の結婚で予定を変更させられ、さらに上司の親族の葬式で日程を変更させられるというこの展開は、遊びのなさも度を越しており、作者のメッセージは伝わらない。
 そういうわけで今回の芥川賞は、本命が「ctの深い川の町」で、対抗が「月食の日」というところだろうか。賞の発表は、7月15日である。