京都議定書を廃棄せよ

 先月の北海道洞爺湖サミットにおける最大のテーマは「環境」であった。十年前に京都議定書をまとめた日本で先進国の首脳が改めて環境問題と向き合うという構図はマスコミ受けもよかったし、何よりも首脳の記念撮影の背景にあった美しい洞爺湖は視聴者に訴えかけるものがあった。しかし、今われわれが反省しなければならないのは、この十年の間に排出削減の成果を挙げてこなかったことだけではない。十年間に聖域化してしまった京都議定書が本当に環境問題の解決策として適当だったか疑念を持たなかったことにある。私は、京都議定書不平等条約だと考えている。その最大にして本質的な欠陥は、1990年という歴史上のただの一時点を基準に排出量の増減を論じていることである。いまの環境に対する負荷の大きさは、いまの排出量に比例するのであり、昔と比べてどうだったかということは関係ない。京都議定書のルールでは、次に挙げる二つの類型の国が自助努力に関わらず不利となる。
 第一に、1990年時点と比べて経済活動を拡大している国が挙げられる。その代表的な存在が中国やインドなど新進の発展途上国だろう。また、先進国の中でもアメリカは、冷戦終結後の長きにわたり繁栄を享受しており、人口も増加している。第二に、省エネ技術が世界最先端の国が挙げられる。技術力が二番手以下の国であれば他国の技術を導入することで、排出量を減少させることもできようが、最先端の国にはそのような余地はない。この省エネ先進国こそ日本なのである。これらの類型の逆、90年代以降の経済停滞を余儀なくされる一方で、いまだ技術的に省エネの余地があるのがEUであり、ロシアなのである。
 いってみれば、途上国を対象とせずアメリカが離脱した京都議定書は、EUとロシアにのみ都合のいいものであり、それに不利なはずの日本が漫然と参加しているのだから、わが国の外交のお人好しぶりにもほどがある。私は、離脱を表明したブッシュ大統領の判断は無責任なものだったと感じているが、それはアメリカが世界のリーダーとして議論を主導するべきだったからであり、議定書の内容を信奉するからでは決してない。
 では、どうするべきか。公平なルールの原則は、単純に排出量に応じた負担を途上国も含めた各国に求めることだと思う。それならば未だ一人当たりの排出量が先進国よりはるかに小さい途上国の負担は軽減されるし、日本の先行的な省エネ投資も無駄にはならない。具体的には、化石燃料の消費量に応じて国際課税を行い、それをもって環境問題に取り組む国際機関の運営にあてるのである。消費税の徴収が他税目より容易であるのと同様、燃料消費量に応じた負担であれば捕捉しやすい。
 この原油高の今日、また原油を上げて経済を混乱させるのか。そういう声が聞こえてきそうである。私自身は、原油はまだ安すぎるのであり、もっともっと高騰してもよく、消費者の方が原油高値に合わせたライフスタイルに変えていくべきだと考えているが、そのことは別稿で論じたい。ただ、短期的にはともかく、化石燃料への国際課税も長期的には価格の高騰に直結しないだろう。なぜなら今日の原油高は、主に需要側の事情によって引き起こされているのであり、国際課税によって需要量が抑制されるにしろ需要側の支出可能額に変化はないからである。長期的にみればOPECの取り分が、そのまま国際機関に移るにすぎない。そういう単純明快な議論をする際に障害となるのが、やはりEUとロシアの京都議定書における既得権益。これを吐き出させないことには、世界中の人々が一つになってかけがえのない地球のために取り組む夢は達せられない。