嫌中感情

 小学生のとき、世界中の人が協力しあい理解しあうことが大切だと教わった。そのとき、そんな当たり前のことを大の大人が真面目な顔で言うのはどうかと思った。しかし、小学生でも自然に受け止められる当たり前のことが大人には非常に難しいようだ。日ごろ政治経済の多方面で主張を対立させている保守陣営と革新陣営が、外国を排斥するという一点だけはなぜか共有している。保守陣営の場合、日本という国に誇りを持ち、日本を正当化するあまりに、日本と対立する外国の立場を受け入れようとしていない。革新陣営の場合、外国の影響によって国内における弱者の生活が脅かされることを恐れる。それゆえ、自衛隊反対などの活動には熱心でも、外国に対して友好の手を差し伸べることはしない。
 そのようなわが国からみて、日本の文化的なアイデンティーを揺るがしかねず、日本の世界経済における優越的な地位を奪いかねない国は中国である。それゆえ、保守も革新も競い合って中国への不安を煽り、それによって国内における支持を高めようとしているというのが、私の現状における認識である。もちろん、私も「日本=悪」「中国=善」などという単純な図式で理解しているのではない。政府が国民の不満を外に向けようとするのは、定石であり、2003年の中国における反日運動にも、中国政府の意図的な発言や報道が随所にみられた。しかし、政治家に踊らされて隣人に対して不信感をむけたならば、最終的にそのツケを払うのは国民である。われわれ国民は、情報を見極めた上で自らがそれを取捨選択して外国と接していかなければならない。
 例えば、餃子事件。いまだに真相は不明だし、中国政府の対応が後手に回ったのは事実だが、国内における反応が過剰すぎはしなかったか。この件で死者は出ていないにも関わらず、大々的に報道されて、消費者は中国産の食品を見ただけで事件を連想するようになった。しかし、今や日本の経済は底流から中国経済に支えられており、すべての中国製を避けて生きていくことは既に不可能になっている。視認できる中国マークだけを買わずに安心感を得るのは、耳をふさいで鈴を盗むようなものである。また、「中国」と一言で日本の10倍を超える面積や人口を有する地域を表現できるのだろうかも私には疑問である。イギリス製品に欠陥が見つかったからといってドイツ製品の購入を控えるということは多くの人にとって不合理なことだろう。中国の一部で些細な事件が起こったならば、それを中国全体に対する悪印象にすりかえるというようなことが日本ではまかり通っているようだ。

 他方で外国カブレもまずい。というのは、情報が偏っている中で世論に反発すると極論になりがちだからである。そうならないためには能動的に情報を取りにいかなければならないのだが、私にとってそのための手段が旅行である。
 旅行先では、健康と日程が許す限り、現地の人と同じように生活したいと考えている。とりわけ長距離列車では多くの乗客と夜を徹して語り合うことができる。同じ目線で見ることによって、その国、そして日本について知ることができる。
 私は今度の年末年始、2度目の中国旅行をする。英語に頼りっぱなしだった2年前と異なり、中国語でコミュニケーションを図ることができよう。同じ目線で同じ言葉で、私は中国についてどんな感情を得ることができるのだろうか。