第140回 芥川賞選評

 30歳の誕生日を期して定期購読している雑誌のうち「法学教室」と「文学界」をやめたのだが、それ以降、本稿の芥川賞予想がどうも当たらなくなっているようだ。この間の各回の受賞作にはケチをつけたいところもあるし、受賞者が誰一人として受賞を契機として純文学の潮流をリードする位置に躍り出ていないことに鑑みると選考委員の判断には疑念も残る。しかし、だからといって私の読み方だけが当たっていたともいえまい。まあいい。自分自身への不安を感じながら、行間を追うことそのものにも、純文学のおもしろさがあるのだから。今回の候補作は、鹿島田真希「女の庭」、墨谷渉「潰玉」、田中慎弥「神様のいない日本シリーズ」、津村記久子「ポトスライムの舟」、山崎ナオコーラ「手」、吉原清隆「不正な処理」の六作品だった。
 正直なところ、今回は、既視感のある作品が目立った。実存主義構造主義など西洋思想を下敷きに人の内面を描写しようとする鹿島田さん、今の目線から過去の出来事を何層にも重ね合わせることで立体感を出そうとする田中さん、複数の人間の個性を描き分けにより人間関係にリアリティーを出そうとする津村さん、年齢差などを素材に恋愛なのかそうでないのか分からないような微妙な感情を表現しようとする山崎さん。いずれも、これまでの芥川賞候補作で見たことのある試みである。まあ、そうであったとしても、大事なのはその試みが成功しているかどうか。
 「女の庭」は、子供のいない専業主婦が近所に引っ越してきた外国人の独身女性の中に自分自身と共有するものを見るという話。作者の内面描写に複雑な構成は不要だけれども、この外国人があまりにも魅力的でなかった。倦怠感を描くのは結構だけど、小説自体にある種の緊張感がなければどうにもならない。「神様のいない日本シリーズ」は、プロ野球日本シリーズにおける3連敗4連勝の記録に祖父と父の青春時代を重ね合わせるという話。野球が全体を通して作為的でなく組み込まれているのはよしとして、母親の個性を十分には描ききっていないため、父のエピソードそのものが不鮮明なものになってしまった。
 「ポトスライムの舟」は、かつての同級生で、全く違う境遇となってしまった20代女性たちの交友関係を軸とした話。作者の個性の描き分けに毎回感心させられるのは置いておくとして、最初は、キャリアウーマンと既婚者の価値観の違いという単純な論点だったものが、一人の友人が離婚して子供を抱えて社会に放り出されるところから急に面白くなった。人間が人間関係なくして成り立たないのと同じように人間関係は人間なくして成り立たない。動と静の両方を描ききったという点では、候補作の中で最も完成度が高いといえよう。
 「手」は、おじさん好きの女性のさりげない日常。おじさんコレクションなど作りながら、性的な関係を持つのはすぐ上の先輩だというような微妙な設定もよい。また、一人称の文章でありながら、第三者である上司や先輩の性欲や打算の方がみえるというのもよい。しかし、この作者のこれまでの作品を超えていると感じるのは、おじさん好きの理由を説明的でなく見せる舞台装置が存在しているということである。山崎さんのこのあたりのファジーな感覚は、私個人としては津島さんの正確さよりもずっと好きだ。
 これ以外では、初めての候補作となる作品で「潰玉」と「不正な処理」があった。「潰玉」は若い女性から暴行を受けることに快感を覚える弁護士の話。女子高生などとの出会いが不自然で単なるマゾヒズムに陥っている。「不正な処理」は高校時代にプログラミングを通じての友人を死なせてしまったことと今の情報漏洩を結びつける話。時間設定があまりに冗長であり、作者が重く意図している設定が漫然と流れるために、オタクの一人芝居の粋を抜け出してはいない。ゆえに、今回の選評では、手法そのものは真新しくないものの、作者の思惑が当たったと思われる「手」を本命、「ポトスライムの舟」を対抗としたい。

 選考委員会は、きたる平成21年1月15日である。