被害者の裁判参加

 2日前のとある傷害事件の公判において、被害者が裁判中に被告から暴言を浴びせられて泣き出すというハプニングが発生したという。テレビドラマなどではよく見られる風景だし、発言内容も反論の域を出ない程度のものであったから、私などは占い師だという30代被害者女性の個人的な問題だと思うのだが、被害者の裁判参加による二次被害の懸念といった文脈で報道されているようだ。
 犯罪被害者の立場が注目を集めるきっかけになったのは、10年前の光市母子殺害事件だろう。残虐きわまりないこの少年事件で、被害者の夫である本村洋さんの「被告の人権は語られるのに被害者の人権は語られたことがない」との痛切な叫びが、犯罪被害者保護という今日の方向性をつくった。復讐心をむき出しにすることについての賛否はともかくとして、本村さんや岡村勲元日本弁護士連合会副会長の無念さを社会に訴えていく献身的な努力がなければ、犯罪被害者は今日も脇に捨てられる存在だったのかもしれない。
 しかし、犯罪被害者を救済することと、その意向や復讐心を裁判に反映させることは全く別次元である。これは裁判員制度にも言えることだけれど、民事裁判と刑事裁判の定義にも関わる根本的な議論をしないまま、責任をとらせるためにとりあえず裁判に参加させようという法曹の姿勢が見え隠れする。そもそも刑事罰は、私人の代理人である弁護士が提起するものではなく、法務大臣代理人である検察官が提起するものである。すなわち検察官による起訴は、法務行政の一環ともいうべき側面を有している。行政は、利害関係者に奉仕すべきものではなく、国民全体に奉仕すべきものである。検察官が行政官であり、刑事事件が行政対当該被告人(国民)という構図である以上、単なる情状の斟酌以上に利害関係者である被害者の意向を反映させることは、社会全体にとって相当な量刑のあり方を歪めることになる。最近の裁判でも、被告人本人と被害者の遺族が望んでいることを理由に死刑判決が出た裁判があったが、これなどは被告人と被害者の談合を裁判官が看過しているようなものである。
 では、犯罪被害者の救済はどのように行われればならないのか。刑事事件の被害者を刑事事件の裁判で救済しようとするから、ここまで述べたような矛盾が生じる。無辜の被害者の居場所は刑事事件の法廷ではなく、民事事件の法廷なのだから、被告人の不法行為について被害者の求めるべきものは、民事訴訟によって解決すべきである。もちろん私も、重大事件の被告人が賠償に耐えるだけの資力を持っているとは想像していないが、そこは倒産企業の賃金債権についてあるような国の立替払い制度(被告人の支払うべき金額の8割を国が立て替えて被害者に支払う)を立法化することなどで、容易に解決することができる。また、このように刑事と民事を分けて考えることによって、限りなく黒に近い灰色の被疑者について、刑事罰を課さずに、被害者の実質的な救済を図ることができる。

 最近、急増する死刑判決。その影には、被害者の権利保護を旗印に厳罰を嗜好する残虐な国民感情が見え隠れする。コロッセウムやギロチンはなくても、今の日本では、雑誌で死刑の特集をすれば飛ぶように売れる。こういうすさんだ国民感情の御輿に乗っている限りは、犯罪被害者が救われることは永遠にあるまい。被害者と被告人の人権は相反するものではなく、同じ理念で守ることができるはずだと思うのだが。