市営地下鉄

 JRの一日散歩切符は、近郊の普通列車が乗り放題で一日2200円、いろいろと使い勝手がよい。これに対して札幌市営地下鉄のドニチカ切符は乗り放題で500円。それでも、魅力的な商品には感じられない。魅力的でないのは、切符の特性というより、地下鉄の路線そのものに問題があるからだろう。地図を眺めても地下鉄の沿線にこれといって興味をひかれる場所はない。

 札幌市営地下鉄三線のうちもっとも評判が悪いのは東豊線である。札幌オリンピックを機にはじめて営業した南北線と、以前から札幌の軸であった東西の交通において国鉄を補完した東西線。この十文字と比較して東区や豊平区の住宅地と中心部を結ぶだけの東豊線の役割はバスでも十分に代替できるものであり必要性に乏しい。しかも南北線が南南東を向いて、東西線が東南東を向いて走っているため、東南部においては三線がほぼ併走している地域すらある。札幌の街は明治の先人達が東西南北の整然とした礎を築いたものであるが、昭和の人口急増に対応できずこれだけ無計画な線引きを行ったことは驚きに値する。
 しかし、私自身はここで東豊線の不要論を唱えるものではない。問題なのは何ゆえ終着駅が栄町と福住なのかということである。栄町から丘珠空港までの距離は一駅分、福住から札幌ドームまでの距離もまた一駅分である。この一駅分の延長さえすれば、市営地下鉄は野球観戦にも出張にもごく身近なものになる。札幌駅前で丘珠空港行きのバスを待つ人の列や、日ハム戦後の熱狂的にファンの群れを見るたびに、路線延長には十分に需要があるだろうと思うのだが、札幌市の都市計画ではそうはなっていない。
 むしろ最近では東西線が琴似から宮の沢まで延長され、これをさらに西へ伸ばそうと考えられているようだ。札幌市の意向は明らかである。すなわち豊平区から分区したばかりの清田区を除けば唯一の空白域となっている手稲区に地下鉄を伸ばし、JRと接続させることで手稲を東の新札幌に対応する街に育てたいという方向性だ。しかし、手稲が新興住宅地として発展していたのは、昭和の時代の話であり、住宅地としての関心は今、石狩、北広島、札幌都心という全く異なる特性をもつ三つの地域に向いている。そういう時代に地域モデルではなく沿線人口や区割りで地下鉄の線引きをするのはナンセンスである。
 もっとも、交通路線の設定には政治的な要素が伴うのは必然であることから、お役所的な論理がまかり通っているであろうのは何も札幌の地下鉄に限ったことではない。例えば、北海道の国鉄は民営化の折にその大部分が廃線となり、幹線国道と併走していない線はわずかに釧網線留萌本線日高本線富良野線江差線を残すのみとなった。多くの路線の中でこれらのみが生き残ったことは、留萌・浦河・江差という支庁所在地をつないでいることと無縁ではなかろう。地方のJR線は地下鉄と異なり採算性がなくとも地域の財産として残すべきだろうと考えているので、これらの路線を存続させることには賛成なのだが、廃線ラッシュの際にどのような取捨選択をしたのかは問題意識を持つべきだと思う。例えば松前線ではなく江差線を残す決断にあたっては、函館から木古内までの区間江差線として換算し、江差線の方がより乗車率が高いという結論に落ち着いたという。このようなばかばかしい論理で、その後の地域のあり方そのものが大きく変わっているのであり、新幹線の延長を機にもう一度このことも議論しなおし反省すべきだと思う。

 地図に線を引く路線の設定は、地域づくりの根幹に関わることである。どういう地域にしたいか大きな理念がなければできることではなかろう。そういう理念を札幌市には提示してほしいし、われわれも市営地下鉄を他山の石としたいものだ。