第141回 芥川賞選評

 私にとって芥川賞の候補作発表から受賞作発表までの十日余りは、現代小説を読む半年に一度の貴重な機会である。しかし同じように考えているのは「メッタ斬り!版 芥川賞直木賞選考会」の豊崎由美大森望だけなのだろうか。今回は、彼らより早く選評を出すことができたので少々気分がいい。

 今回の候補は六作品。どの作品にも共通しているのは疲れである。社会経済の環境が急速に悪化していく中で、自分の生き方を厭世観をもってみつめるとき、その倦怠した有り様は一見すると芸術的にみえる。しかし、そのまどろみは時代に流される受け身のものゆえ、夢想は既に破綻をきたしている。これを補えるようなエネルギーはどの作品からも感じられず、それゆえに夢の破綻の小さい作品を消極的に選ばなければならないのが今回の選考会ではなかろうか。
 最も注目度が高いのがシリン・ネザマフィ「白い紙」(文學界6月号)だろう。中国人の受賞に続き、イラン人が文学界新人賞で一発受賞となればマスコミも大いに盛り上がることができる。イラクとの戦争中のイランで成績優秀な生徒への淡い恋心と、その生徒が医学部受験をやめて出征するまでを描いた作品。イスラム圏での恋愛感情と戦時下の人々という強烈な題材を取り上げたものでありながら論調でないのには好感が持てるが、それをどのように受け止めればよいのか戸惑ってしまう。気持ちを伝える日本語は、英語や中国語よりはるかに難解である。彼女が今後、日本での生活を積み重ねていく中で、どのように気持ちを伝えればいいのか模索していくことを期待したい。
 戌井昭人「まずいスープ」(新潮3月号)と藤野可織(ふじのかおり)「いけにえ」(すばる3月号)は夢のモチーフの失敗作。「まずいスープ」は、父親がまずいスープを作ってすぐ失踪し、その後の混乱の中で家族の形が見えてくるという話。家族や友人がなかなか魅力的に描かれており引き込まれて読んでいたが、犯罪に巻き込まれたゆえの失踪で、味付けに失敗したのもそれで動揺していたからだというオチは救いようがない。「いけにえ」は、子育ても終わった女性が美術館でボランティアをしていて悪魔を捕まえるという話。悪魔がバラだったでは答えになっていない。どちらにしても、スープや悪魔で読者を引き付けたなら最後まで面倒をみてほしい。夢ではないのだから。
 磯崎憲一郎「終の住処」(新潮6月号)と本谷有希子「あの子の考えることは変」(群像6月号)の夢のモチーフも興醒めの感がないでもないが、破綻していないのは作者の力量だろう。「終の住処」は遅い結婚から定年間際までを倦怠感をもって描いているのだが、十年以上も妻と一言も口をきかなかったという設定に無理があった。作者としては、倦怠感の象徴としたかったのだろうが、異常な設定のおかげで作品の持っている普遍性を減退させたのは残念である。「あの子の考えることは変」のセフレと処女が同棲しているという設定も不自然。そんなに奇を衒わなくても、二人の個性は十分に鮮明に描かれており読者を満足させることはできたと思うのだが。
 松波太郎よもぎ学園高等学校蹴球部」(文學界5月号)の夢のモチーフは野球。高校3年生最後の試合と、女性監督が亡くなったことで同窓生が集まることの二つに標準を当てた思い切りの良さには感心するし、この二つの事柄がうまく絡み合っているのだが、野球の描写がラジオの野球中継と変わらない。作者はそれを狙っていたのかもしれないが、焦点の当て方が鮮明な作品ゆえに違和感を覚えてしまう。
 そういうことで今回は、なかなかキラりと光る作品を見つけることはできなかったが、順をつけるなら本命は処女の本谷で対抗は野球の松波といったところか。選考委員会は、きたる7月15日(水)より新喜楽で開催される。