漢とローマ

 奇しくも紀元前202年という年はユーラシア大陸の東西において歴史を決する戦いがあった年として記録されている。東は垓下において劉邦が楚を破り漢による中国統一が達せられ、西はザマにおいてスキピオカルタゴを破りローマによる地中海の覇権が確立した。垓下もザマも合戦としての完成度は鉅鹿やカンネーに劣るし、将軍としての存在感は敗者である項羽ハンニバルの方が際立っていた。しかし、その劇的な面白みの薄さにも関わらず、数百年にわたって世界に君臨した大帝国の草創として記憶されているのである。
 東洋史西洋史の融合が困難な故かあまり論じられることはないが、この双子の帝国は驚くほどに類似した特性を持っている。
 第一に、その名目上の存在の長さ。漢は3世紀初頭に滅亡したが、禅譲という特殊な制度により帝位は合法的に魏晋宋斉梁陳と受け継がれ、隋の文帝により滅ぼされる6世紀末までその流れ自体は続いている。ローマについても5世紀末の西ローマ帝国滅亡をもって終焉を迎えたとするのが一般的な理解だが、フランク王国を経て神聖ローマ帝国が受け継いだものを考えればナポレオンに達する。あまりにも帝国としてのインパクトが大きすぎたゆえに、その余韻ですら混乱する世界を鎮める一助となったのだろう。
 第二に、民族を拡散させるために果たした役割の大きさ。王朝名からとられた「漢」民族はいまや十億を軽く超える世界最大の民族である。またローマ帝国以前はギリシア人やフェニキア人に押された半島の少数民族に過ぎなかったラテン民族は16世紀には世界を制覇し、今でも南米大陸全体を手中にしている。そして、その巨大民族にとってのオリジナリティーが漢でありローマなのである。
 第三に、体制を根本から変革した英雄の個性。漢末に群雄割拠する中でいち早く帝を擁して丞相となり、魏公から魏王そして禅譲一歩手前で死去した曹操ガリアやエジプトへの遠征で版図の骨格を形成して終身独裁官となるものの元老院で暗殺されたカエサル。彼らは袁紹ポンペイウスのようなライバルが持ち合わせていなかった明確な国家ビジョンを有しており、それは曹丕アウグストゥスという後継者に引き継がれた。両雄は、政治家として将軍としてだけではなく当代随一の文章家としても歴史に名を残しているが、私には東西世界において天が天才の出現を求めていたゆえの彼らの登場だと思われる。平時であれば彼らはいずれも、不良とプレイボーイの域を出なかったようにも思える。
 第四に、国家システムの雑居性。漢は郡県と王国を併用しながら、ローマは属州と同盟国を併用しながら、時間をかけて中央集権体制を築いていった。このようなシステムの併用は、異なる文化を取り込む際にもクッションの役割を果たし、外への帝国の拡張を支えていたのである。
 このような双子の帝国がこの時期に誕生したのは偶然でもあろうし、気候変動など必然的な要素もるかもしれない。それはともかく、私自身はシリアに達しながらローマ行を断念した甘英やローマ王に擬せられた安敦の周囲にある。漢とローマの人々はお互いをどのように認識していたのかが気になるからだ。見たことはなくても、商人たちの伝言ゲームによって噂に上っていたことは間違いないし、現代において宇宙空間に文明の存在する星を確認したならば抱くであろうものと似たロマン的な感情だったのかもしれない。そんな漠々としたことを想いながらシルクロードならぬミルキーウェーを眺めてみるのも、秋の夜長の過ごし方としては一興である。