厳禁論と弛禁論

 今年の大河ドラマ龍馬伝」は、黒船の衝撃から物語が始まるが、より衝撃的な開国を強いられたのは中国の清だろう。むしろ清の開国から十年以上もの猶予を与えられた日本だからこそ、庶民の衝撃はともかくとして幕府が早期に開国の判断を下し、近代化への道を歩むことができた。
 その中国が開国を強いられたのが阿片戦争。真っ先に産業革命を経験したイギリスの武力に遅れを取った中国が敗れて半植民地化するきっかけになったというのが阿片戦争の評価だが、この当時でもGDPベースでは中国の方がイギリスとは比較にならない経済力を持っていたとされる。経済力で世界1の中国にイギリスが比肩できるようになるのは、中国に次ぐ経済力を誇っていたインドを植民地化した19世紀後半のこと。そのように考えれば、GDP上位に中国とインドが並ぶとされる21世紀後半の風景も、19世紀前半までの長く安定した時代の関係に戻るだけのことなのかもしれない。中国がイギリスに大きく劣っていたのは、良鉄は釘にならずとの格言に表される文官偏重の中での軍事力であり経済力ではなかった。

 閑話休題。この戦争は林則除の阿片取締に端を発するのだが、戦前の中国には厳禁論の他に弛禁論があった。阿片の依存者に碌な人間はいないのだから禁止の必要はなく、公認することで関税を徴収すれば国庫にも寄与するとの弛禁論は、かつて阿片常習者であり自らの強い意思で阿片を断ち切った道光帝の容れるところとならず林が起用されたとされる。現代においても林が英雄視される一方で弛禁論は一顧だにされないが、私にはそれほどの暴論であるとは思えない。
 まず、公認するといっても是とするわけではなく、阿片が流入しているという現状認識から始めるということである。厳禁論に立脚した林が非常に優秀な政治家であったため、彼の提示した阿片撲滅の具体案もイギリスに対して筋の通ったものになっていたが、放任から厳禁への転換は既存の関係性の全否定を意味するのであり、それによって生じた摩擦が招いた重大な事態の結果責任を負わなければならないのは必然であった。また、弛禁論とは関税による消費の抑制を意味する。日々、様々な物の貨幣価値を天秤にかけている経済動物である人間に、阿片の嗜好品としての効用と関税額を量らせることにより、究極的には阿片の消費量を一定の方向に導くことができるのだ。長期的にみて、参入退出が自由な中でなど、市場原理が働く幾つかの条件さえ整えば、高額の関税を払ってまでの阿片使用はそれだけの効用が当事者に認められるということになり、経済合理性を有する。

 なぜ、170年も前の事を持ち出すのかというと、昨今のタバコへの風当たりを思うからだ。私は、生まれてからこれまで一度も喫煙を嗜んだことはないし、依存性や有害性などタバコは阿片類似の特性を持つ商品であると認識している。しかし、だからといって、ほんの数年前まで日常的に喫煙が許容されていたものを、どこもかしこも一律に禁煙とするのは妥当なのだろうか。禁煙が当たり前になったがため、誰もが煙に敏感になって、さらに禁煙スペースが広がるという循環が発生している。なお私の職場では、分煙が始まって以来、喫煙スペースは執務室の一部から、ロビー、排気口のある倉庫みたいな場所を経て現在では庁舎の外になっている。冬に震えながら吸うタバコの味は分からないが、不良の高校並みにトイレの中がタバコ臭かったりする。
 そうではなく、誰もが喫煙権を自由権として行使できる社会が、行使する予定のない私ではあるが望ましいと思う。他方で、それでも嗜好する人がいるのであればタバコ一箱500円などというケチクサイ話ではなく、1000円あるいは2000円にしてはどうだろうか。それだけのお金を払ってでもタバコを吸いたいという人の権利を認め、需要そのものを抑制することで嫌煙家の期待にも答え、一箱800円あるいは1800円を超える税収により国庫も潤う。そういう市場の原理を生かすことでこそ、各人の権利に折り合いをつけることができると思うのだが。