統帥権の独立と文民統制

 統帥権の独立という言葉は、軍部暴走の代名詞となっている。軍部の気にくわない人間に組閣の大命が降下されても、軍部大臣現役武官制をタテに軍部が陸軍大臣の推薦を拒み、内閣そのものを流産させるという形での政治介入は大日本帝国憲法の下において頻繁に行われた。しかし、軍の政治介入は統帥権の独立から必然的に導かれるものではない。戦前の過ちは制度にあったのではなく、制度の運用にあった。
 そもそも軍事と監察を行政権から分離するという構成の歴史は古代にまで遡る。漢において三公とは丞相(司徒)、御史大夫(司空)、大尉(司馬)のことであったが、概ねそれぞれの管轄は、行政と監察と軍事であった。唐の頃になると、行政権は三省六部が、監察は都察院が、軍事は都護府が司るようになる。興味深いのは、六部のうち吏部が内務、戸部が財務、礼部が外務、工部が経済を所管しただけでなく、兵部と刑部が存在していたということ。監察と軍事の独立は企画部門までとして、管理部門は閣内に置くということだが、陸海軍省が軍政を、参謀本部と軍令部が軍令を司った帝国憲法も、これと同じ型である。
 しかし、このような三権の均衡は、西洋近代の立法、行政、司法の三権を分立させるという思想に直面する。モンテスキューは、渾然一体となっていた立法と行政を区分して捉えたこともさることながら、司法権の独立を謳い、これも行政権と対立関係にあるとした。ここで考えなければならないのは監察権と司法権の相違である。監察が内部の牽制機能であるのに対して司法は外部の牽制機能であるということだ。日本においては、この区別を重視しなかったため、監察と両翼を担っていた軍事に司法並みの独立を期待してしまい、軍部の暴走を許してしまった。日本も含めてアジア諸国に軍事クーデターが多いのは近代思想が成熟していないということだけでなく、古代からの監察と軍事の独立の思想を引きずっているという背景もあるからだろう。

 さて、そのような軍事独裁の反省にたって、日本国憲法下の自衛隊においては「文民統制」が敷かれているのだが、その実は制度の趣旨を履き違えているようにも思える。すなわち文官である内閣総理大臣防衛大臣の下に三十万隊員の全てを置くというのが文民統制の意義なのだが、文民である背広組が文民でない制服組の上位にあるような内局優位が戦後の長きにわたって確立してきた。くどい言い回しだが、文民である防衛大臣を支える両翼となるのが防衛事務次官であり、統合幕僚会議議長である。戦前の感覚であれば、次官は中将職であるから大将徽章を付ける統幕議長よりも格下とまで言いかねないが、それも不当であり、やはり両者の立場は対等であるというのが私の認識である。

 実は、この問題の論点は国にとどまるものではない。都道府県が所管する警察や、市町村が所管する消防においても、行政組織と階級的治安組織という馴染まないものをどのように融合し、組み立てて、どの程度の独立を容認していくかということが重要になる。専門性を発揮させることと、行政全体の中に収斂させていくことは、そもそも矛盾をはらんでいるのであり、議論の中でどこかに落としどころを見つけざるをえないのではあるが。