闖関東

 先月の連休に冬期休暇を足して5日間で中国東北を旅行した。ここ数年で3回目の中国となってしまったが、今回は自分の語学力を試す旅であり、また前二回とは大きく異なるものであった。大連を基点とした旅は、東亜の現代史の縮図を踏むことでもある。旅順を往復してから夜行で哈爾浜まで北上し、満州国の新京こと長春、後金の都である奉天こと瀋陽を経て北朝鮮国境の丹東に至る旅程には数多くの歴史上の舞台があった。
 世界遺産故宮と陵を有する瀋陽はこの旅程のハイライトであるし、丹東の断橋から観る北朝鮮の風景も話題性がある。しかし、記憶に最も強く残ったのは、瀋陽から丹東への鈍行列車における乗客同士のほろ苦いやりとりであった。
 瀋陽を出たとき満員だった車内は、徐々に空いていき、ようやく座れたときに斜向かいの若い女(後に満州族だと知るのだが)と何となく会話が始まり、私は日本人の観光客だというような話をしていた。後ろの方で我々の会話を耳にした蒙古族の若い男が、それで私に関心を持ち出し、満州族の女を押しのけて私の右に席を移してきた。当初は彼との会話を楽しんでいた私も、彼のすごいペースに押されて辟易していたところ、彼の右に座っていた朝鮮族だという中年の男が、アメリカや日本がいかに悪い国なのか滔々と語り出し、一気に盛り下がった。その後は、対面にいた男が「自分の子供には日本語を勉強させている」という話をしたりで全くの沈黙ではなかったものの、何となく気まずい雰囲気のまま夜の丹東に着いた。
 気まずいとはいえ出来過ぎの挿話である。満州国時代の五族協和は、日本・朝鮮・満州・蒙古・漢民族によるものであった。敗戦により日本人が退場した後、四民族はいずれも「中国人」になったが、その民族性が融合したわけではなかった。韓国の経済力を見聞きしながらも辺境で貧困に甘んじる中で屈折したプライドを保つ朝鮮族清朝を樹立したゆえに民族としてのアイデンティティをほとんど失った満州族、陽気で快活ながら気分屋で言動に計算のなさすぎる蒙古族、彼らを尻目に教育などに地道に投資を続ける男は、さしずめ漢族だったのだろうか。
 アメリカ、オーストラリア、北海道。19世紀に前後して移民により構築された社会は世界中にあるけれど、中国東北もその一つである。人口希薄地である父祖の地を大多数を占める漢族に奪取されるのを恐れた征服王朝清朝は、東北三省への入植を禁じてきたが、清朝の力が弱まった20世紀初頭、海を隔てた山東半島の飢饉をきっかけとして急速に入植が進んだ。これが歴史上「闖関東」とされる出来事である。本国との距離や入植の時期など、日本における北海道と類似点は多いが、中国東北が北海道と大きく異なるのは、国際政治の影響もあり、様々な民族が混在する社会ができあがったことだろう。むろん北海道にも、こういう出身地によるアイデンティティの相違は存在する。北海道の場合、入植の第1期(1895年前後)に主力を占めた北陸出身者と第2期(1905年前後)第3期(1915年前後)に主力を占めた東北出身者の風俗習慣に大きな違いが見られたものの、それが対立対抗関係に発展しないままに「道民」となった。それが可能であったのは富山県人であるか青森県人であるかより、各々が日本人であることを意識していたからであろう。
 ここまで語れば、山東人であるか否かが意識された闖関東が成功するために必要だったものは明らかである。「東北人」となるためには「中国人」であることが必要だったのだであり、そこにこそ抗日運動が根深いものになった潜在的な理由がある。その一方で私は思う。五族協和の「満州国臣民」をつくるというのも、出身地による対立関係を解体するという点では一定の効用があったのではないかと。それにも関わらず満州国が否定されるべきものだと結論づけてみると、新天地において解体すべき旧物とは何かが分からなくなる。唯一つはっきりしているのは、入植と侵略は紙一重であるということ。それにもかかわらず侵略はいけないことであり、入植は全否定すべきではない祖先の営みであると言うからこそ、何をもって是とするか論じることが難しくなる。